tapestry ~音と言葉と心象と~

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シンガーソングライターtomyMの音楽と言葉のつづら折り

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サングラハ教育・心理研究所
http://www.smgrh.gr.jp/
主幹 岡野守也先生による高松水曜講座
2018年12月12日
【よくわかる道元入門】第3回
レビューVol.2です
 
「諸悪莫作(しょあくまくさ)」という巻は、
「一顆明珠」の2年後、道元40歳の時にかかれたもので、
ここでは、道元の倫理観が語られています。
 
 
一般的に「善悪」は、「人間はこうしなければならない」という倫理として教わるものですが、
 
本心には、多かれ少なかれ「そうは言ってもしたいことはしたい、欲しいものは欲しい」という、自己中心的な気持ちが潜んでいたりします。
 
 
近頃は、社会、他者からの過度の倫理が閉塞感となり、それが反動となって、自己中心的に生きることを推奨する向きもありますが、
 
確かにその通り、というところもありますが、ただ単にそこだけ煽ったところで、一時的、刹那的高揚に溺れるだけでは、とも思います。
これについては、また時を改めて考察したいと思います。
 
 
話しを元に戻します。
 
 
本心を偽っている状態。
倫理と本心との間の葛藤。
 
苦しいですよね。
 
でも、道元によれば、「覚りの言葉」を聞いていると、自分の本心の側から「諸悪莫作」という願いが起こってくる、としています。
  
つまり、自然に自発的に諸悪をしたくなくなる。
倫理と本心に乖離がない。
 
そして、してはいけない、ではなく、したくなくなるというのが、修行の実現・完成である、としています。
 
 
ここで言う「覚りの言葉」とは、何が悪い、何が善い、ということを語っているものではなく、
 
「縁起」「一如」「空」
 
つまり、世界は本当はどういうものか、私とは実は何なのか、存在のありのままの姿とは、を語る言葉であり、
 
それが次第に心の奥底に浸透していくことによって、善悪、が具体的になっていく、のだと思います。
 
 
「よくわかる道元入門」第三回 レビュー Fin.
 

サングラハ教育・心理研究所
http://www.smgrh.gr.jp/
主幹 岡野守也先生による高松水曜講座
2018年12月12日
【よくわかる道元入門】第3回
レビューVol.1 です
 
 
今回は、道元の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中の
 
「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」と「諸悪莫作(しょあくまくさ)の巻について。
 
 
「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」という巻は、道元38歳の時にかかれたもので、
 
道元の世界観が端的に表現されているといえます。
 
 
>>盡十方世界是一箇明珠なり、両顆三顆とはいはず。全身これ一隻の正法眼なり、全身これ真実体なり、全身これ一句なり、全身これ光明なり、全身これ全身なり。<<
 
 
>東西南北とその間で八方、上下を足して「十方」といい、「十方世界」とは全世界・全宇宙のことである。
 
全世界は一個の光の珠であり、ニ個でも三個でもない。
全世界が全身でありただ一つの真理を見る眼であり、
全世界がほんとうの体であり、
全身体が一つの言葉であり、
全身・全宇宙が光明であり、
全宇宙は全宇宙である <
(テキストより) 
  
 
道元は如浄禅師の元で「身心脱落」を体験し、長年抱えていた問いの答えは得ていました。
 
それは「無常感」から「無常観」への転換であるといえます。
 
 
「無常感」とは、
何かに対して「変わってほしくない」という執着から生まれる感情で、「変わる」ということを虚しく不条理に感じること。
 
「無常観」とは、
「変わってほしくない」という執着から解放され、ありのままの世界の姿を見た時、「変わる」ことが自然だということが腑に落ちていること。
 
 
個が個でバラバラに存在しているならば、「変わる」とは終焉であり消滅であり、悲しく虚しく不条理であると感じるけれど、
 
世界は一体であることが本来の姿ならば、個は全体のひとときの現象であり、「変わる」とは変容であり躍動であり、それが自然のことである。
 
 
「身心脱落」により観る世界の本質的姿は、 
「一顆明珠」=全世界は一つの光り輝く光の珠
 
であると説いています。
 

サングラハ教育・心理研究所
主幹 岡野 守也 先生
高松水曜講座(2018/11/7,28)
【よくわかる道元入門】第1,2回 レビューVol.4です。
 
 
道元は、世の無常・不条理の答えを求めて12歳で出家し比叡山に入りますが、
 
そこで修行する中で
 
「本来本法性」=「人間は本来覚りという性質を持っている」
「天然自性身」=「生まれたままで覚っている。ありのままが覚り」
 
という教えに対して、
 
「なぜ人がもともと覚っている存在ならば、なぜわざわざ覚りたいと思う心を起こし覚りを求めて修行するのか?」
 
という問いを抱きます。
 
 
やがて道元は比叡山をくだり、宋に渡り、如浄禅師のもとで
「身心脱落(しんしんだつらく)」を体感し、長く抱いていたその問いの答えを会得します。
 
 
それは、
 
「人は覚りを求めて修行するのではなく、覚っている存在であるがゆえに修行できる」
  
というものです。
 
 
前回のレビューでも記述しましたが、
 
「身心脱落(しんしんだつらく)」とは、
 
すべての事象、それは物理的なものも心理的なものも含めたすべて、つまり人の「身」も「心」も含めたすべてが、バラバラに存在しているという見方から完全に脱している、
その概念が完全に抜け落ちている=「脱落」している状態にあること、
 
と私は解釈しています。
 
 
自分という存在も含めたすべての事象は一如である。
 
自分という存在はすべてと分離のない一如の中にあり、それが存在の本質的な姿であり、
 
それは無理やり「そうなんだ」と自分の思考も心も洗脳して思い込むようなことではなく、
 
ある意味、人がどれだけ疑おうが納得しなかろうが、鼻で笑おうが、そんなことで揺らぐような観念的なものではなく、現代科学の分野においても立証できる事実。
 
ただ、科学的表現と仏教的表現では表現の仕方が違っているということでしょうね。
 
でも実はどちらでも同じことがいえる。 
 
仏教的表現によれば、
 
「本来本仏性」=「人間は本来覚りという性質を持っている」
「天然自性身」=「生まれたままで覚っている。ありのままが覚り」

となる、ということです。

 
先述した、道元の会得した答えに返ります。
  
「人は覚りを求めて修行するのではなく、覚っている存在であるがゆえに修行できる」
 
 
『正法眼蔵』の「現成公案」の中に、
 
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり」

という句があります。
 
 
「覚りたい」という発心と修行は、自我と分離した「覚り」というものを自分の外に探し求めるものではなく、
 
すでにここにある「覚り」に還っていく過程、といえるのではないか、
 
というのが、現時点での私の解釈と表現です。
  
 
より内容を正しく深く知りたい、という方は、講座へのご参加、文献やHPをご参照いたければと思います。
 
 
今後の講座のスケジュール、また、これまでの講座のDVDの頒布などについては、
サングラハ教育・心理研究所のHPをご参照の上、お問合せください。
http://www.smgrh.gr.jp/

参考文献:『道元のコスモロジー』岡野守也著