中学毛筆「必修逃れ」大阪・枚方の14校「通常の国語確保」
大阪府枚方市立中学で、学習指導要領で義務づけられている「国語」の書写の授業のうち、毛筆をまったくしていなかったり、標準時間数を大幅に下回ったりしている学校が全19校のうち14校に上ることが、同市教委の調べでわかった。 書写は毛筆と硬筆で構成され、学習指導要領では、1年生で年間の国語の授業時間の10分の2程度(約28回)、2、3年生で各10分の1程度(約10回)と定められている。ところが、同市教委が今月2日に行った調査によると、毛筆の授業をまったくしていないのが7校、2、3年でしていないのが6校、3年でしていないのが1校あった。 多くの学校が毛筆の時間を通常の国語の授業に振り替えていた。硬筆については履修漏れは確認されていないが、実際には漢字の書き取りをさせているだけのケースもある、という。 毛筆をしていなかったある中学の校長は、「週5日制が導入された2002年度に国語教諭が話し合って決めた。国語の授業時間を十分に確保するためだった」と釈明している。 卒業の可否は校長の裁量に委ねられ、現状でも卒業できないなどの不都合は生じないが、市教委は「明らかな学習指導要領違反」と指摘している。各中学に対し、書写の授業を行うよう、緊急の通達を出す。 (2006年11月4日 読売新聞)引用 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20061104ur21.htm
高校世界史につづき,中学校もか!といったところではあるが,ここで問題としたいのは,
学習指導要領で義務づけられているというフレーズ。
学習指導要領で義務づけられているというフレーズ。
日本教育新聞社の記事は学習指導要領について次のように説明している。
学校教育においては、全国的に一定の教育水準を確保するとともに、
実質的な教育の機会均等を保障することが求められる。
このため、学校が編成する教育課程の大綱的な基準として学習指導要領が定められている。
引用 http://www.kyoiku-press.co.jp/kkw/2006/syoucyuu-16.htm
実質的な教育の機会均等を保障することが求められる。
このため、学校が編成する教育課程の大綱的な基準として学習指導要領が定められている。
引用 http://www.kyoiku-press.co.jp/kkw/2006/syoucyuu-16.htm
学習指導要領の大綱的基準とは何ぞやと思い,さらに調べてみると,
昭和51年05月21日に建造物侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反の最高裁判決を発見。
旭川学力テスト事件というもののようです。
以下,学習指導要領に関する記述の抜粋。
昭和51年05月21日に建造物侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反の最高裁判決を発見。
旭川学力テスト事件というもののようです。
以下,学習指導要領に関する記述の抜粋。
学習指導要領についていえば、
文部大臣は、学校教育法三八条、一〇六条による中学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、
普通教育に属する中学校における教育の内容及び方法につき、
上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために
必要かつ合理的な基準を設定することができるものと解すべきところ、
本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに、
おおむね、中学校において地域差、学校差を超えて
全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても
必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしていると認められるのであり、
その中には、ある程度細目にわたり、かつ、詳細に過ぎ、
また、必ずしも法的拘束力をもつて地方公共団体を制約し、
又は教師を強制するのに適切でなく、
また、はたしてそのように制約し、
ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、
右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、
地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、
全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められるし、
また、その内容においても、
教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は
全く含まれていないのである。
それ故、上記指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の当否はともかくとして、
少なくとも法的見地からは、
上記目的のために必要かつ合理的な基準の設定として是認することができるものと解するのが、
相当である。
引用 http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/02D2CC35EDBC9F9F49256A850030AAE9.pdf
文部大臣は、学校教育法三八条、一〇六条による中学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、
普通教育に属する中学校における教育の内容及び方法につき、
上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために
必要かつ合理的な基準を設定することができるものと解すべきところ、
本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに、
おおむね、中学校において地域差、学校差を超えて
全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても
必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしていると認められるのであり、
その中には、ある程度細目にわたり、かつ、詳細に過ぎ、
また、必ずしも法的拘束力をもつて地方公共団体を制約し、
又は教師を強制するのに適切でなく、
また、はたしてそのように制約し、
ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、
右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、
地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、
全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められるし、
また、その内容においても、
教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は
全く含まれていないのである。
それ故、上記指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の当否はともかくとして、
少なくとも法的見地からは、
上記目的のために必要かつ合理的な基準の設定として是認することができるものと解するのが、
相当である。
引用 http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/02D2CC35EDBC9F9F49256A850030AAE9.pdf
というわけで,
「地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが
必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない」状況であるならば,
大阪府枚方市のケースは問題であるといえそうですなぁ。
ただ,学習時間・内容が3割削減された,いわゆる2002年問題の歪みによって生じた問題と考えれば,
国語の書写以外の内容が窮屈すぎて,
やむを得ず,書写の時間を少なくしたという可能性も考えられます。
本判例によると,
「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、
地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されて」いることが,
学習指導要領の大綱的基準と認められる条件の一つです。
学校週5日制になって,
土曜日の補習や7時間授業の実施など,
かえってゆとりがなくなったとの声が教師からも子どもからも聞こえます。
そういう状況下ならば,教師による創造的かつ弾力的な教育の余地は皆無でしょうなぁ。
そう考えると,現行の学習指導要領が大綱的基準と認めることが妥当かどうか疑わしいですな。
「地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが
必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない」状況であるならば,
大阪府枚方市のケースは問題であるといえそうですなぁ。
ただ,学習時間・内容が3割削減された,いわゆる2002年問題の歪みによって生じた問題と考えれば,
国語の書写以外の内容が窮屈すぎて,
やむを得ず,書写の時間を少なくしたという可能性も考えられます。
本判例によると,
「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、
地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されて」いることが,
学習指導要領の大綱的基準と認められる条件の一つです。
学校週5日制になって,
土曜日の補習や7時間授業の実施など,
かえってゆとりがなくなったとの声が教師からも子どもからも聞こえます。
そういう状況下ならば,教師による創造的かつ弾力的な教育の余地は皆無でしょうなぁ。
そう考えると,現行の学習指導要領が大綱的基準と認めることが妥当かどうか疑わしいですな。
ましてや読売新聞のように大綱的基準を義務とでっち上げることは問題外です。
よほど無知な記者が書いた記事か,
さもなければ,国民をだますつもりで書いたか,
いずれにせよジャーナリズムとしては落第ですな。
よほど無知な記者が書いた記事か,
さもなければ,国民をだますつもりで書いたか,
いずれにせよジャーナリズムとしては落第ですな。
さらにもう一点。
これはあくまで私が勝手に思っているだけかもしれないのですが,校長というのは学校のあるじ。
家庭で言えば親みたいなものかと。
多くの校長は普通の教諭を経験しているわけで,
校長にとってみれば,教諭は子どもみたいなものでしょう。
なのに,校長が「週5日制が導入された2002年度に国語教諭が話し合って決めた。」と話すのは,
「悪いのは私ではなくて子どもなんですよ。皆さんわかってください」
と責任逃れをしているように聞こえます。
良識ある親なら,子どもに説教するとは思いますが,
まず親として申し訳ないと謝るものではないのかと…。
これはあくまで私が勝手に思っているだけかもしれないのですが,校長というのは学校のあるじ。
家庭で言えば親みたいなものかと。
多くの校長は普通の教諭を経験しているわけで,
校長にとってみれば,教諭は子どもみたいなものでしょう。
なのに,校長が「週5日制が導入された2002年度に国語教諭が話し合って決めた。」と話すのは,
「悪いのは私ではなくて子どもなんですよ。皆さんわかってください」
と責任逃れをしているように聞こえます。
良識ある親なら,子どもに説教するとは思いますが,
まず親として申し訳ないと謝るものではないのかと…。