東海道歩きは旧島崎藤村邸を後にし、大磯を進みます。

 

 

 

東海道に戻ります。バス停(統監道)あたり…

 

 

 

「大磯宿・上方見附」があったところです。見附とは本来お城の出入り口に建つ見張門のことですが、江戸時代宿場の出入り口にも防護施設として造られました。江戸時代も平和な時代となると、榜示杭が立てられるだけで、旅人に宿場の出入り口を示すだけの役割となったのです。

 

 

 

 

しばらく歩くと「鴫立庵(しぎたつあん)」がありました。

 

 

 

心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ      西行法師(新古今和歌集)

 

 

 

寛文4年(1664)小田原の崇雪が西行を慕って、この地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりです。
 

 

 

元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し「鴫立庵」と名付けたもの。

 

 

 


その崇雪が草庵を結んだ時に「鴫立沢」の標石を建てたのですが、そこにこの地の景勝を讃えて「著藎湘南清絶地」と刻んだのが初めです。中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているとしてそう呼んだようです。

 

以来この地が「湘南発祥之地 大磯」とされたのです。

 

 

 

 

廣重描く「東海道五十三次 大磯(隷書版)」…鴫立沢西行庵の副題がついています。

 

 

 

しばらく歩くと、日本キリスト教団「大磯教会(国登録有形文化財)」がありました。明治33年(1900)プロテスタントの日本メソジスト教会大磯講義所としてこの地に設立され、以来120年を超える歴史ある日本基督教団の教会です。

 

現在の会堂は、昭和12年(1937)建築されたもので、石造西洋建築のゴジック風様式を木造下見板で実現しているなど、昭和初期を良く伝える貴重な遺構です。

 

教会堂玄関のステンドグラス(1937年)

 

 

 

 

このあたり「大磯宿・南問屋場」があったところです。大磯南組と北組の2ヶ所に問屋場がありました。

 

 

 

 

明治24年(1891)創業の和菓子屋「新杵」は、歴史を感じる佇まいです。

 

 

 

 

蔵つきの雰囲気あるお屋敷。お金持ちなんでしょうね。

 

 

                    2024/05/16