『セス・マテリアル ジェーン・ロバーツ著』 より

 

 時間に関する君たちの考えは間違っている。君たちが経験する時間は、肉体的な感覚器官によって創られた錯覚なのだ。肉体的感覚器官があるために、君たちは行為(アクション)をある特定の観点から知覚せざるを得なくなるのだが、知覚されるのは行為の本質ではない。

 

 肉体的感覚器官は、現実(リアリティ)を一度に少しずつ知覚することができるに過ぎない。そのため、君たちにはある一瞬が存在して、永遠に消え去り、次の瞬間が来て、それもまた、その前の瞬間のように消滅してしまうように見えるわけだ。

 

 だが、宇宙にあるあらゆるものは一度に、同時に存在している。宇宙の始まりに発せられた言葉は、今でも宇宙の中を響き渡り、君たちの観点からすると最後に述べられる言葉も、すでに発せられているのだ。それは、始まりと言うものは存在しないからだ。始まりと終わりで限られているのは、君たちの知覚だけなのである。

 

 過去も、現在も、未来も存在しない。そうした区別は、3次元の中で生きる者にとってのみ、存在しているように見えるだけだ。私はもはや3次元には居ないので、私には君たちが知覚しないものを知覚することができる。君たちの中にも、物質的現実に縛られていない部分があり、その部分は、存在するのは「永遠の今だけだ」ということを知っている。それを知っている全体自己の一部が君たちなのだ。

 

 たとえば、君たちは1836年に生きていた、と私が言うのは、それが今の君たちにとって意味をなす言い方だからだ。君たちは、すべての生まれ変わりの人生を同時に生きているのだが、3次元的現実の観念の枠組みの中では、それを理解するのは困難だと思うだろう。

 

 自分がいくつかの夢を見ていると、そして夢を見ていることに気づいていると想像してごらん。それぞれの夢の中で、100年が過ぎ去ったとしよう。だが夢を見ている君たちにとっては、時間はまったく過ぎ去っていない。なぜなら、君たちは時間が存在する次元に束縛されていないからだ。夢の中~あるいはそれぞれの人生~で過ごしたと感じる時間は、錯覚でしかない。そして内なる自己にとっては、時間は少しも経過していない。というのも時間は存在しないからだ。

 

 さまざまな生まれ変わりの自己は、一見したところ、クロスワードパズルの一片と見なすことができる。それぞれが全体の一部でありながら、別々に存在することが可能だからだ。

 

 君たちは過去、現在、未来という考えに心を奪われているので、生まれ変わりを、1つの人生が別の人生の前にあるというように、ひと続きに繋がっているもの、と考えざるを得なくなっている。君たちがそうした連続する時間という概念に慣れているために、ここでも過去世という言い方で話しているのだ。

 

 実際に起きているのは、どこかしら「イブの三つの顔」に語られている状況に似たものだ。支配的な自我(エゴ)があり、どの自我もすべて内なる自己感覚(アイデンティティ)の一部でありながら、それぞれが様々な人生で優位な位置を占めている。

 

 しかし、そうした別々の人生は同時に存在しているのだ。別個の人生に関わっている自我だけが、時間に区切りを付けているのである。紀元前145年も紀元後390年も、君たちから見て1000年前も1000年先の未来も、すべて今存在しているのだ。

 

(注)「イブの三つの顔」 ~ イブとは多重人格者であり、それら全ての人格は彼女の中に同時に存在しているのだが、入れ替わり現れて、その時々にはその内1つの人格だけが優勢になる。同じように、いわゆる過去世の人格も、今の君たちの中に存在するのだが、支配的ではないのである。

  

      

 

 生まれ変わりと、同時に存在する時間という2つの概念を融合したのはセスが初めてです。輪廻に関する他の理論は、たいてい時間が連続するのは当たり前だと見なしています。でも、それでは因果関係はどうなのでしょう?

 

 「実際にはすべての出来事は同時に起きているので、過去の出来事が現在の出来事を引き起こした、という事にはあまり意味はない。過去の経験が現在の経験をもたらすことはないのだ。君たちは過去、現在、未来を同時に創り出している。君たちには出来事が順番に起きるように見えるので、これを説明することは難しい。

 

 過去世からの何らかの特性が、現在の行動パターンに影響を与えたり、それを引き起こしていると言うとき~私自身そのような言い方をしたことがあるが~、そのような発言はある論点を明確にするために、非常に単純化したものなのである。

 

 全体自己は、それに属するすべての自我の経験をことごとく把握しており、1つの自己感覚がそれらの自我を形成したので、互いに類似点があり、同じ特性を共有しているのは当然と言えるだろう。私が君たちに語った生まれ変わりに関する情報は、確かな根拠のあるものであり、現実に応用する際には特に有効だ。しかし、それは実際に起きていることを単純化して説明したものなのだ」

 

カルマには、罰は関わっていない。カルマは成長のための機会を提供する。個人が経験を通して理解の幅を広げ、無知による隙間を埋めて、為すべきことをするのを可能にするものだ。常に自由意志が働いている」