“ 自分を愛するように隣人を愛しなさい ”。これをひっくり返して、“ 隣人を愛するように自分を愛しなさい ” と言ってみましょう。

 

 というのは、あなた方はたいてい、他人の美点を認めて自分のそれを無視するからです。なかには、自分が謙虚さと見なすものに大きな価値や神聖な美徳があると思っている人々がいます。そのため自分自身を誇りとすることは罪のように思われている場合があるようです。

 

 本物の謙虚さとは、自分の全体性と価値を愛情深く認めることです。真の謙虚さとは、自分自身に対するその愛情深い敬意にもとづき、さらに自分の住む宇宙にいるすべての存在がそれぞれ否定しえない個性と自尊心を持っているという気づきに根ざしています

 

     

 

 誤った謙虚さは、あなたはつまらぬ人だとあなたに告げます。誰も自尊心を否定する説を心から受け入れることなどできないので、誤った謙虚さには、歪められ思いあがった否定された自負が隠されています。

 

 偽の謙虚さは他の人々の価値をおとしめることがあります。なぜなら自分に価値がないと認めれば、ほかの誰にも価値を見出すことができないからです。

 

 多くの人々が、たとえば表向きやたらと他の人々を援助したり、自分を頼ることを奨励したりします。実際には、彼らは他の人々が自分自身の力や能力に気づいたり、それらを使ったりすることを妨げているのです。

 

     

 

 あなた方が何と教えられていようと、「自己犠牲」に値打ちはありません。一つには、それは不可能だからです。自己は成長し発展します。それは消滅されえません。自己犠牲はたいてい、自分の「重荷」を他の誰かに放り投げ、それをその人の責任のように見せることを意味します。

 

 「私は両親のために自分の人生をあきらめ、彼らの世話に専念した」という子どもが意味しているのは、「私は怖くて、自分の人生を生きる勇気も、親に親自身の人生を生きさせる勇気もなかった。だから自分の人生を“あきらめる”ことで、自分が望んでいた人生を得た」ということです。

 

 愛は犠牲を要求しません。自分自身の存在を肯定することを恐れる人はまた、他の人々が自分自身のために生きようとするのを許すことを恐れます。子どもを鎖で自分に繋いでおいても子どもを助けることにはならないし、年老いた親の無力感をあおっても親への助けにはなりません。

 

     

 

 自分を愛し、自分に正当な敬意を表してください。そうすれば他の人々に公正に対処するでしょう。あなたが「嫌だ」と言ったり否定したりするのはいつでも、当面の状況や提案されたそれが、あなたの頭や気持ちの中で、何らかの理想に遥かに達しないからです。

 

 あなた方に「完全さ」についてそれほど頑なな概念がなければ、普通の拒否はまったく実用的な目的に役立ちます。しかし何か理想化された完全なものと比較して、あなた自身の今の現実を決して否定したりしてはいけません。

 

 完全なものは存在しません。というのは、すべての存在が“なりつつある状態”だからです。これはあらゆる存在が“完全なものに”なりつつあるという意味ではなく、一層“それ自身に”なりつつある状態だということです。

 

     

 

 人を愛する前に、まずあなた自身を愛さなければなりません。自分を受け入れ、喜びに満ちてあなたであるところのものであることによって、あなたは自分の能力を開花させ、またただそこに居るだけで人々を幸せにすることができます。

 

 自分を憎みながら人を愛することはできません。そんなことは不可能です。代わりに、自分にはないと思うすべての性質を誰かに投影して口先だけで賞賛し、それらの性質を持っているためにその相手を憎みます。たとえ愛していると公言しても、その人の正に存在基盤をひそかに弱めようとするでしょう。

 

 ほかの人々を愛するときは、彼らの生来の自由を認め、常に自分の面倒をみてほしいなどと意気地なく主張してはいけません。愛に分け隔てはありません。親に対する子どもの愛、子どもに対する親の愛、夫に対する妻の愛、妹に対する兄の愛のあいだに、基本的な違いはないのです。

 

 あるのはただ愛のさまざまな表現や特性だけであり、すべての愛が肯定します。愛は、自分の理想から外れていても非難せずに受け入れることができます。愛する人の実際の姿を、潜在的な理想像と比較したりはしないのです

 

 この見方では、その潜在しているものも現在のものと見なされます。そして実際のものと理想のものは“同時に存在している”ので、それらの間にある隔たりが矛盾を生むことはありません。

 

     

 

 さて、自分は人類を憎んでいると思うことがあるかもしれません。人々を、つまり自分が地球を共有している個々の人間たちを、正気でないと見なしているかもしれません。多分あなたは自分から見た、人々の愚かな振る舞いや残虐なやり方、そして問題に対する不適切で近視眼的な解決法を悪しざまに言うでしょう。

 

 それはすべて、“人間はこうあるべき”というあなたの理想化された概念にもとづいてのことです。その理想はつまり仲間の人間たちに対するあなたの愛でもあるのですが、しかし決して牧歌的とは言えないそれらの差異に注意を集中していると、あなたの愛は道に迷いかねません。

 

 自分が人間をもっとも憎んでいると思うとき、実のところあなたは愛の板ばさみになっています。人間と、それについての理想化された愛情に満ちた概念とを比べているのです。けれどもこの場合あなたは、関わっている現実の人々を見落としています。不満の背後にある愛の思いを自由に解き放つことができれば、それだけで、今はほとんどあなたの目に入らない人間の愛情深い特性が見えるようになるでしょう。

 

 『個人的現実の本質 ジェーン・ロバーツ著』 より