人類というのは、さまざまな意識体が通り抜ける1つの段階である。もっと幅広く、開かれた現実界に入ることが許されるようになるには、まずエネルギーの扱い方を学び、物質的顕在化を通して、いかに思考や感情が具体的な結果を生むか理解しなければならない。

 

 子供が泥でパイを作るように、きみたちは思考や感情から、きみたちの文明を形作る。そしてその後で、自分たちが創り出したものを目にするのだ。私は、きみたちの文明の中で起こる暴力を大目に見ているわけではない。実際のところは、暴力は決して許されるべきものではなく、それが何なのか、理解されなければならないのだ。

 

 つまり人間は自ら犯した過ちから学んでいるのだという事を理解しなければならない。人間はまた、自分が成し遂げたことからも学ぶのであり、ときに、互いに手を結び合い、慎重に物事を判断し、創造性を発揮するのだ。

 

     

 

 人類の霊性は、中世ヨーロッパのそれに比べれば格段に進歩している。しかし人類は、ある程度の自制心を身に付けたという証拠が得られるまでは、危険性の高いおもちゃで遊ぶことは許されたかったということだ。もし子供が、隣人に向かって銃を発砲するとはっきり分かっていたら、弾の入った銃を、そもそも子供に渡したりはしないというのと同じことだ。

 

 戦争や環境破壊というのは、明らかに目に見える事物だが、その一方でそれほど明白ではない要素があり、重要なのはそちらの方なのだ。

 

 それは学んで身に付けた自己規律、自制心、やっと目覚めた慈悲の心、そして最後のレッスンとして学ばれるもの~目前の破壊と憎しみを超えて、創造性と愛を求める積極的な願望~である。こうした事を学び終えたとき、生まれ変わりのサイクルは終わりを告げるのだ。

 

 生まれ変わりのサイクルが終わり、物質界を離れるとき、きみたちはレッスンを学び終わり、文字通り、もはや人類の一員ではなくなるのである。きみたち自身が物質界を離れることを選択するのだ。

 

 きみたちの時間で言うとあとになってからだが、きみたちは皆、巨人が小さな窓を通して覗き込むように、物質的な次元の中を見下ろして、今のきみたちと同じ立場にいる人たちに目をやって微笑むことになるだろう。しかしきみたちは、そこに留まりたいとも、その小さな囲われた場所を這って通り抜けようとも思わないだろう。

 

     

 

 いずれにせよ、物質界に住んでいるのは意識的自己だけであり、きみたちの自己感覚(アイデンティティ)のほかの部分は、同時に別の学びの次元に存在している。

 

 創造に対する責任は、はっきりと理解されなければならない。ある意味で、きみたちは防音の、隔離された部屋の中にいると言えるだろう。その“部屋”の中では、憎しみは破滅をもたらし、レッスンを学び終えるまでは、破滅の後に、さらなる破滅が続いていくのだ。

 

 破滅というものは、実際には存在しないのだが、きみたちが学び、身に付けなければいけないのは、責任を持って創造することなのだ。きみたちの次元は、新たに出現しつつある意識のための訓練の場なのである。

 

 その訓練は、互いに関連し合う、さまざまな次元に存在するための備えとなるだろう。もし、きみたちの次元における悲しみや苦しみが本物だと感じられなければ、レッスンを学んだことにはならないのだ。きみたちの次元にいる教師は、最後の生まれ変わりの人生を生きている者か、すでに物質界を離れたのだが、まだその中にいる人々を援助するために任命された人格だ。

 

     

 

 きみたちの次元には、そこに“初めて”参加する断片的な人格もいれば、生まれ変わりの途中の人格もいる。きみたちは感情的エネルギーを、行為(アクション)や形あるものに変換することに関わっている。次に自分たちが創造した次元の中でそれを操作し、その結果から、どこで成功し、どこでしくじったかを学ぶのだ。

 

 人類は同じ夢を同時に見る。そして集団として、きみたちの世界を作り上げるのだ。その仕組み全体は、自分が制作者であると同時に俳優としても演じている、教育的な劇のようなものだ。1つの劇の中に別の劇があり、さらにその中にも別の劇がある。物事の“内側”には果てはないのだ。全体的自己は観察者であり、また役を演じる者でもあるのだ。

 

 “物質界に生きているということ”は、きみたちの本質がよりレベルの低い現実に存在しているということではない。きみたちがまだ、自分の存在する規模の大きさを、認識することを学んでいないということなのである。

 

『セス・マテリアル ジェーン・ロバーツ著 水野浩訳』 より