保育士をしている女友達が言いました。
「子供たちを整列させている時、隣の組の子供たちが騒いで仕方なかったので注意したら、
そのクラスの担任が『うちのクラスの子供なんだから、あなたは口出ししないでっ』って
怒るんだよ。その先生のことは“良い人”と思っていたのにガッカリしたわ」
“騒いでいる子供を注意したコト”については間違いではないけど、問題はその先生のこと
を“良い人だと思っていた”ところ点だね。
「でも、その人のことを“悪い人”と思いたくはないのよ」
“悪い人”と思うことは悪いことで、“良い人”と思うのは良いことなの?
「どういうこと?フツーそうじゃないの?」
別に“悪い人”と思う必要はないけど、同様に“良い人”と思うことも、あなたが相手に勝手
に貼ったレッテルなのでは?
人は、相手に良い反応を示されれば、その人に好印象を持つ。
逆に、嫌な反応を示されれば、悪い印象を持つ。
でもそれは、あくまでも“自分にとって”の話。
その人がホントに良い人か悪い人かはまた別のコト。
仏教に『六道輪廻』という言葉がある。『りくどうりんね』と読む。
天道 人間道 修羅道 畜生道 餓鬼道 地獄道 の六つの道。
~界 と言わずに ~道 と名づけるは、これらが空間的事象ではなく、また、死後に赴く世界
でもなく、人の心の様相を表した概念だからである。
迷いある人は、この六つの道を行ったり来たりする、という。
天道のさらに頂上を有頂天という。しかし、そこすらなお迷いある場所。
足元をすくわれれば、地獄道に真っ逆さま......
というか、六道輪廻というように輪の如く繋がっているのだから、天道のすぐ隣に地獄道が
あるのだけどね。
人を勝手に“良い人”と思うは、自分を良く見てもらいたいから。
そう思っていた人に裏切られれば途端に奈落の底に落とされて、恨み辛みから今度は相手に
“悪い人”というレッテルを貼りがちだ。
そうならぬように相手を恨まぬように必死にもがいてみるけれど、胸の怒りは治まらぬが
本音。つまり、これは修羅道。
問題は“子供に注意したコトの是非”ではなく、つまり君が“相手に怒っている”という
ことだね。
なれば・・・・・・
心を安寧にするために、手首の『内関』と胸の真ん中の『壇中』に鍼をしてあげよう。
のぼせた気を下げるために『足の三里』と、ホルモンバランスを取るために足首の『三陰交』も使いましょう。
肝実脾虚証
「あら、ホントっ……なんか気がスーって降りてスッキリした」
ダイジョーブ。あなたは間違っていない。
自分でもそう思うのならば、迷わず“堂々”としていれば良いさ。