「あしたのジョー2」 | 日日是祝日

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「あしたのジョー2」は、1980年(昭和55年)10月13日から1981年(昭和56年)8月31日の、毎週月曜日19時00分~19時30分まで、日本テレビ系列で全43話が放送されたテレビアニメ。

遡ること10年前に放送された前作「あしたのジョー」の後を受ける形で始まったアニメ版「あしたのジョー」完結への再始動だった。

アニメ「あしたのジョー」は、エピソードが原作に追いついてしまったため、カーロス戦の後ジョーが旅に出る形で強制終了となり、10年の時を経て、この「あしたのジョー2」で、有名な真っ白に燃え尽きるラストまでを優れたスタッフたちが圧倒的な熱量をもって描ききった。

監督は先日取り上げた「ベルばら」でも後半部分を担当した出崎統監督。

のちにファンの間で、宮崎駿、富野喜幸(現・由悠季)両監督に並び称されるほどの知名度を得ることになる方だが、もちろんその当時の私は知りもしなかった。

それどころか、以前少し書いた気もするが、本放映時には裏番組だった「宇宙戦士バルディオス」の方に熱中し、のちに熱狂することになるあの「カーロスvsジョー」の大晦日大決戦を見遁すというポカをしでかしている。

 

 

その後、視聴率合戦に敗れたバルディオスの放送時間帯が変更になったことで、やっと観られるようになったものの、その出来の良さに気づいた時はもう後の祭り。

なぜそんな失敗をしたのか、いまではよく覚えていないが、当時の私は矢吹丈というキャラクターがあまり好きではなかったような気がする。

特に、前作の冒頭から少年院送りになるあたりまでは、単なるケンカ好きのチンピラにしか見えなかった。

若気の至りというか、もはやそういうお年頃だったとしか…あせる

ところが、10年の時を経て甦ったジョーは、ぐっと成長して大人びており、やたら格好良くなっていたのに驚いた。

 

前作のジョー

今作のジョー

 

服装は同じなのに、違い過ぎないか?

監督はどちらも同じ出崎統監督だが、10年という月日はアニメの技術を進歩させ、「ベルばら」でもみせた静の演出がジョーの内面をより精緻に活写して、丈から受ける印象は一変した。

監督自身の成長も、多分に影響していたのだろうと思う。

 

ストーリー

 

ライバルであり友でもあった力石徹をリング上で死に至らしめ、そのショックから行方をくらましていた矢吹丈が、一年ぶりに泪橋の丹下ジムに帰ってきた。段平や西、紀子やサチ、キノコ、トンキチらをはじめ、歓喜に沸くドヤ街の人々。

ジョーは力石の墓前でカムバックを誓い、破竹の快進撃を開始する。

その圧倒的な強さを前に危機感を募らせた日本ボクシング協会の面々は、示し合わせてジョーを潰しにかかった。

ジョーは死んだ力石への罪の意識から、彼を死なせたテンプルへのパンチを打てなくなっていた。カムバック以来、手は出すものの、本気のパンチは一発たりとも繰り出せていなかった。

それに気づいたボクシング協会は、次々にジョーのカードを組んで追いつめる。

いつしかジョーの姿は、再びリングから消えた。

ちょうどその頃、ジョーの異変にいち早く気づいていた白木葉子は、南米ベネズエラへ飛び、無冠の帝王と呼ばれる世界ランカー、カーロス・リベラの招聘に動いていた。

葉子の招きに応じて来日を果たすカーロスと、マネージャーのロバート。

カーロスは葉子の思惑に乗り、ジョーと対戦したボクサーと次々に闘い、苦戦しながらリングに沈める。だが、カーロスは葉子から聞いた日本にただ一人いるという本物のボクサーと対戦するまではと、敢えて力を温存していた。

偶然カーロスの試合をテレビで目にしたジョーは、一目でその実力を見抜き、カーロスの逗留している白木ジムへ押しかけるや、喧嘩腰でスパーリングを申し出る。

ほんの退屈凌ぎのつもりでその申し出を受けたカーロスだったが、ジョーの強烈なクロスカウンターを食らい、目の前の男こそ葉子の言う日本にいる本物のボクサーに違いないと気づき、手加減無しの攻撃を繰り出しはじめる。

スパーリングとはいえ世界ランカーと夢中で打ち合い、いつしかジョーも本気でカーロスのテンプルへ拳を繰り出していた。

カーロスとのスパーリングを通し、ジョーが力石の亡霊から解放されたと喜ぶ段平。

日本での最後の試合を前に、メキシコにいる世界チャンピオンのホセ・メンドーサから、挑戦受諾の連絡を受けるロバート。

歓喜のロバートを尻目に、対戦相手の日本チャンピオンを瞬殺したカーロスは、観客席にいたジョーを次の対戦相手に指名してしまう。

タイトル戦を目前にしたカーロスの信じがたい行動に、必死で説得を試みるロバート。

ついにカーロスは彼を殴り倒し、雪の舞うクリスマスの街へと姿を消した。

なんとしてもジョーと闘いたいと言うカーロスの熱意に折れるしかないロバートは、試合日を延ばせたとしても、莫大な違約金が発生する現実に頭を抱えてしまう。

途方に暮れるロバートに、肩代わりを申し出る葉子。

こうして、葉子のプロモートによるカーロス・リベラvs矢吹丈の「除夜の鐘対決」が決定し、大晦日の夜、待望の復活を果たしたジョーと無冠の帝王カーロスとの壮絶な死闘の幕が上がった!

 

 

と、あらすじはこの辺で端折るが、物語はあのちばてつや氏が、脱稿後は「お粥しか食べられなかった」という渾身のラストシーンまできっちり続く。

ジョーが燃え尽きるあの表現がちば先生の発案によるものだというのは、わりと知られている話。

 

ちば先生は、最後の最後に梶原一騎氏の原稿をバッサリ全ボツにし、自らこの最終回を描いたという。

力石の登場シーンでも、二人の間の連携がうまくいかず、ちば先生が梶原先生の想定より大柄に描いてしまったため、そのままでは対決させられず、やむなくあの苛酷な減量エピソードが誕生したとのこと。

それがかえってより劇的なドラマを生んで、力石人気が沸騰したというから面白い。

と、これもわりとよく知られている話。

「キャンディ・キャンディ」や「空手バカ一代」などもそうだが、マンガ原作者と作画担当者の間には、傍目に伺い知れぬ複雑な事情が絡む場合もあるらしい。

アニメ化を担当した出崎統監督は、ジブリ映画やガンダムの生みの親として知られる宮崎駿監督や富野喜幸(現・由悠季)監督のようにオリジナル作で名を成した監督ではなく、概ね原作付きのアニメ化で知名度を獲得してきた監督で、しかも、原作をただ動かすのではなく、独自の解釈による台詞の改変やオリジナルのエピソードを挟み込むこともままあったという。

私はむしろそうしたオリジナルエピソードから非常な感銘を受けた記憶がある。

監督が一存で原作の台詞や内容を改変してフィルムにすれば、大抵視聴者から激しく抵抗され炎上しがちなのだが、この方だけは例外どころか、そのことでかえって評価の高まった稀有な監督といえそうだ。

その最たるタイトルが、OVA版の「ブラックジャック」だろう。

原作のエピソードを原型が残らぬほど換骨奪胎し、まったく異なる大人びた「ブラックジャック」を創り上げた。

 

 

そののち、テレビアニメ化もされてかなり長期にわたって放送されたが、個人的にはOVA版ほど感銘を受けることなく、途中で離脱してしまった。

あくまでも個人の感想であり、作品に優劣をつける意図のないことはお断りしておきたい。

さて、「あしたのジョー」も「ジョー2」も、矢吹丈というボクサーの青春を描いた物語だが、まず特徴的なのは、ジョーが決して成功者ではないことだろう。

同じ原作者の「巨人の星」などもそうだが、主人公は必ずといっていいほど悲劇的な最期を迎える。

ジョーの場合は、肝心要の力石戦でもホセ・メンドーサ戦でも、敗北を喫して終わっている。

力石は死に、ジョーは…

あのラストからもリベンジのないことははっきりしている。

最近流行のチート主人公とは真逆を行くヒーロー像で、ヒットの要件とされる「友情、努力、勝利」の法則も無視している。

確かに友情には恵まれたかもしれないが、ジョーにとってボクシングは呼吸と同じで努力ではないし、最終的な勝利は得られない。

合理的に成功の果実を得ることだけが評価の対象になる令和の時代には、決して相容れぬテーマだと思うが、

「努力をことさら努力と感じない」ことこそ、充実した人生を歩む上で最も大切なポイントなのではないか。

ジョーの生きざまは、視聴者にそのことを訴えかけているように思う。

「結果に結びつかない努力は努力ではない。徒労だ」

お金にならぬことに没頭する若者に対し、大人は大抵そのように決めつけがちだし、なんなら若者自身すらそう考えている節のある今日この頃だが、そんな時代だからこそ、再評価されるべきタイトルだと考え、このような記事を書いてみた次第。

現在アマプラで全話配信中なので、よろしければ再確認を。

初めての方も、ぜひ!