「未来少年コナン」は、1978(昭和53)年4月4日から同年10月31日まで、NHKにて毎週火曜日19時30分から20時00分まで放映された、日本アニメーション制作のテレビアニメーション。全26話。
「コナンと言えば?」
「名探偵!」
的な反応は、私にとっては寂し過ぎる。
我らアラフィフ世代には、宮崎駿監督の初監督作品として夙に知られる不朽の名作。
アニメージュをはじめアニメ雑誌創刊ラッシュの裏で、数多のアニメ作品がお茶の間を賑わせていた70年代、「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」、そしてこの「未来少年コナン」の三タイトルは、多分誰にとっても忘れ難い歴史的大傑作となったことだろう。
どのタイトルも、本放映時はさほど話題にならず、後に口コミでじわじわ評価を上げていった経緯が共通している。
「ヤマト」は「ハイジ」の前に沈んだし、「ガンダム」は放送時間と斬新すぎる内容に、「コナン」は誰も知らない原作、ロボットも出てこない地味なSFで、あまりにも華がなかった。
当時のアニメには市民権がないも同然、スタッフや制作会社が注目されることもない時代だっただけに、アニメ雑誌の果たした役割は大きかった。
もし、放送時期が雑誌の創刊ラッシュと重なっていなければ、どの作品も数あるマイナータイトルの一つとして時の流れに忘れ去られていたかもしれない。
私もNHKで初めてのアニメが始まったのは知っていたが、どうせ「文部省推薦」のお堅い内容だろうと決めつけて、気にもとめなかった。
たまたま転校先の学校で同時期にやってきた転校生と意気投合し、キャプテン・フューチャーの話を聞いて、
(へえ、NHKのアニメも馬鹿にならないんだな)
「マルコ・ポーロの冒険」でトドメを刺された感じだった。
ほどなく映画館で「コナン」が観られるとなった時はとても嬉しく、件の友人といっしょに勇躍映画館へ足を運んだ。
初見の私はかなり満足したのだが、友人は物足りない様子で、
「ハイハーバーもギガントもないなんて!」
と、ぶつくさ言っていた。
映画しか観ていない私には、あれで充分面白かったし、研ナオコの歌う主題歌も気に入っていただけに、友人の残念そうな表情は後々まで印象に残った。
(あれだけ面白かったのにあんな顔をするなんて、テレビ版はどんだけ面白いんだよ?)と、俄に興味が湧いた。
その後、所々カットされた民放の再放送を観る機会はあったが、完全な形で観るには、レンタルビデオの普及を待つしかなかった。
その間にも、宮崎監督は「ルパン三世カリオストロの城」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」など、立て続けにヒットを飛ばし、新たに立ち上げたスタジオジブリとともに、その名はやがてブランド化されるに至るのだった。
ストーリー
西暦2008年7月、人類は絶滅の危機に直面していた。
核兵器を遙かに超える超磁力兵器が、世界の半分を一瞬にして消滅させてしまったのだ。
地球は大地殻変動に襲われ、地軸はねじ曲がり、五つの大陸はことごとく引き裂かれ、海に沈んでしまった。
それから20年。
絶海の孤島「のこされ島」に墜落した宇宙船で、ひとり生き残った老人「おじい」に育てられた少年コナンは、再生し始めた自然の中で逞しく成長していた。
ある日、島の海岸にラナという少女が漂着する。
物心ついてから「おじい」以外の人間を見たことのないコナンは大はしゃぎ。
「おじい」も、地上に自分たち以外の人間が生き残っていたことを知り、安堵するのだった。
ラナはハイハーバーという大きな島で暮らしていたが、世界で唯一大変動前の文明を擁するインダストリアという都市国家により誘拐され、護送中に逃亡したのだった。
追跡してきた戦闘員たちにラナは再び拉致され、阻止しようとした「おじい」も重傷を負う。そして、コナンに島を出てラナを救い、仲間を見つけ、彼らとともに生きるよう言い残して息を引き取った。
コナンは「おじい」を埋葬し、その遺言を守るため、ラナが連れ去られた「インダストリア」を目指して旅立つ。
観ていただけば一目瞭然だが、この作品には後の宮崎アニメの様々なエッセンスが、ほぼすべてといっていいほど凝縮されている。
これを分解、再構築することで、その後の宮崎監督の作品群は出来ているのではないかと思わされるほどだ。キャラクターの配置やストーリー構成など、マンネリにすら感じられる。
なのに、退屈とは無縁で、却って安心感を生み出しているのが宮崎アニメの凄さ。
モンスリーやダイス船長は、その後の作品でも姿を変えて何度も登場しているし、レプカはもはや宮崎アニメに不可欠な悪役全員の原型になっている。
「躊躇わない!騙されない!諦めない!」
ギャバンの歌みたいだが、コナンという主人公の魅力を集約するなら、そのあたりではないか。
あまりクヨクヨ考えず、直観的に相手の本質を見抜くので、騙されたり利用されることがない。諦めることを知らないので、時に視聴者の度肝を抜くような常識外れの行動に出る。
そこをアニメならではの表現で巧みに描くから、普通なら、
「ありえねー!」
「リアリティーなんかあったもんじゃねーな!」
と、突っ込まれて一笑されそうなところを、ごく自然に納得させられてしまう。
三角塔の高所から飛び降りたり、鋼鉄製の拘束具を引き千切ったり、足の指を手の指のように使ったり、猿にだって真似出来ない。
ましてや、モーションキャプチャーを使ったら絶対に不可能な表現で、あの時代のアニメーションだからこそ許されていたともいえるかもしれない。
とはいえ、下手な処理をすればたちまち嘘くさい陳腐な映像になるのがわかりきっているから、参加したアニメーターの方たちはずいぶん研鑽し、想像力を働かせたことだろう。
それから、ヒロインのラナが時として主人公を上回るような無茶をするのも、この監督のお約束。
クラリスやらシータやら、後に様々な姿で登場するお姫様たちの元祖ともいえるラナ。
単に王子様の助けを待ち望むだけでなく、一本芯が通っていて、時には窮地に陥った主人公を助けるため、捨て身の行動に出る。
健気なその姿に、観ている側は毎回心を鷲摑みにされてしまう。
コナンにしろラナにしろ、総じて子供らしい無邪気さと大人顔負けの行動力を兼ね備え、直観力に優れ、正邪の見極めが早い。
大人なら一歩退いて考え込むような場面でも、躊躇なく決断し、その決断は必ず正しかったりする。
ひとつ間違えば不自然極まりないのだが、周囲を固める大人たちが後付けでその根拠を丁寧に解説してくれるので、不満が残らない。
モンスリーやダイスもそうだが、この作品ではラナの祖父ブライアック・ラオ博士が主にその役割を担ってくれている。
あの頃のアニメ、特にSFの場合、大抵博士や「おじい」のように、子供に対してきちんと責任を持って導こうとする大人キャラが存在していたように思う。
「宇宙戦艦ヤマト」の沖田艦長とか、ロボットアニメには必ず登場する○○博士などもそうだった。
このセオリーを敢えて崩してきたのが、同時代の「機動戦士ガンダム」で、それがここまで巨大なコンテンツとなったのも、必然だったかもしれない。
「ガンダム」が大人の存在を、子供たちにとって導いてくれる対象から、乗り越えるべき対象へと変えた。
以降は、TVアニメは勿論、宮崎アニメからも、子供を導く大人キャラは次第に姿を消していった。
主人公たる子供たちは、迷い悩みながら、自力で成長の階段を上ることを求められ、そのプロセスにファンが共感するというのがひとつの楽しみ方になった。
自分を省みても、到底子供を導けるような大人にはなっていないし、先の見通しも立たないこの時代に、ラオ博士のように、
「こうあるべき」
と、自信をもって説教できる大人は多くないだろう。
作り手側に自信がなければ、もとよりキャラクターに説教させることも出来ない。
ネットでイキり散らして他人にマウントをとりたがる
(おまえ、本当に大人かよ?)
と、不審に思うレベルの大人はよく見るが、ラオ博士のような人物は悲しいかなフィクションの中でさえ出会えなくなってしまった。
だからなのか、今になって観直していると、コナンたちの溌剌とした姿がより愛らしくもあり、次の世代にのぞみを繋いで穏やかに息を引き取ったラオ博士や、沈みゆくインダストリアに敢えて残った委員会の老人たちの安らかな覚悟と諦観、悟りの境地のようなものが、若い頃に観たのとは違った意味で、より切実に身につまされた。
アニメばかりでなく、ドラマでも映画でも、名作と呼ばれるタイトルは、観る側の成長過程に合わせ、いつでも違う驚きと感動を用意してくれる。
その意味でもこの「未来少年コナン」は、真の名作と呼んで差し支えないだろう。