法神流の形を伝承する稽古会がはじまって、まる2年を経過しました。
メンバーは10人。地元の者5名、地元以外から5名。
私などの進歩ははかばかしくありませんが、かなり真剣に活動できました。
それも、遠くから参加されている方々の熱心さに強く刺激されている面があります。

ということもあって、先日の練習の後、利根郡に残る法神流のゆかりの地を
メンバーで訪ねました。

利根法神流の系譜は次のようになっていますが、ここに須田(星野)房吉と園原騒動の舞台が
加わります。

楳本法神→金子甚内→中沢孫右衛門→中沢良之助貞祗→(中沢 琴)→中沢栄太郎→中沢忠右衛門

まず、利根法神流最後の剣士にして、中沢琴から鎖がまを習ったという中澤忠右衛門の
顕彰碑を薗原ダム湖畔に尋ねました。

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つづいて、吹割の滝がある追貝の利根町振興局裏手の星野房吉追悼碑と墓、
房吉の道場があった海蔵寺を訪ねました。

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さらに、平川不動尊に回って園原騒動のきっかけとなった法神流の奉納額を見ました。
藤原賢和筆の「法神流」の文字の立派さに感激しました。

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つづいて、大揚の金子甚内の墓を見てから、老神温泉を経て中澤貞祗の立派な墓がある
穴原を見学して終わった。

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 ※金子甚内・・・堤宝山流柔術の大家。法神から印可を受け利根法神流の師範となる。
 ※中沢孫衛門・・穴原の人。甚内から法神流を学び道場を開く。貞祗・琴の父。
 ※中沢良之助貞祗・・・父に法神流を学び、江戸の千葉、斎藤の道場でも修行する。                     浪士組募集に応じ、近藤勇らと共に京都に上る。新撰組には
加わらず江戸に戻り、庄内藩あずかりの新徴組・剣術世話
心得となる。明治維新に際して庄内に転じ、官軍を撃退。
その後、松が丘の開墾に従事し、明治7年に帰郷。
 ※中沢 琴・・・貞祗の妹。薙刀、鎖鎌の名手。
  貞祗の浪士隊応募に従い京都まで行ったと考えられている(新撰組
  女隊士説)。新徴組では男装して活動し、毛利、島津屋敷襲撃、
  庄内戦争にも参加(男装の美人剣士説)。帰郷後は、試合して負
  けたら嫁になるとしたが、負けることなく独身で過ごしたという
         生涯独身説は誤っている。
※中沢栄太郎・・・貞祗の子。父・琴から、剣・柔・棒・薙刀・鎖鎌を習う。
穴原の道場消失後、東京高田馬場へ養武館道場を開設。
昭和3年、沼田で脳溢血のため急逝。「中沢の片手上段袴絞り」
※中沢忠右衛門・・栄太郎・琴に法神流を学ぶ。利根法神流最後の剣士。
栄太郎出京後は、子持の飯塚儀内範士に学ぶ。昭和32年没。