放浪埼玉人の World Tour

放浪埼玉人の World Tour

放浪癖のある埼玉人の食レポ、旅行記を掲載していきます!

牛島の藤を後にして、春日部駅の西口へ向かった。  
駅前の小さな広場に、藤棚がある。  
ここも見事な藤の花が咲き誇っている。

 



広場には「藤まつりウィーク」と書かれたのぼりが立っている。  
今年の春日部藤まつりは、来週の2026年4月26日(日)に開催されるらしい。

 



コンビニでビールとつまみを買い、駅前の藤棚の下で一杯やる。  
先ほどの藤花園でも一杯やったが、  
藤の花を眺めながら、花見気分で飲むのも悪くない。

ビールを飲み終え、ふじ通りへ向かった。  
春日部駅西口から約1.1kmにわたって藤棚が続く、春日部を象徴する通りだ。  
ここは何度も通っている。隣町に住んでいるので、馴染みのある道だ。  
だが、今日は少し違う気持ちで歩いていた。

 



牛島の藤を見た後では、  春日部という街の藤が、ただの景観ではなく、  
「長年にわたり受け継がれてきた文化の延長線」のように見えてくる。

春日部市が市の花を藤に制定したのは、1973年のことだ。  
その背景には、市内に国の特別天然記念物「牛島の藤」があるという事実が大きく影響している。  
一本の藤が、この街の象徴として長く親しまれてきたのである。

市はその数年後の1979年から、駅西口から伸びる道路を「ふじ通り」として整備し始めた。  
現在も、西口から約1.1kmにわたって藤棚が続いている。  
春日部の藤文化を“街の景観”として形にした、最初の大きな取り組みだった。

春日部の藤文化は、牛島の藤という一本の藤を起点に、  
市の政策へ、そして街の風景へと静かに広がっていったものだ。

歩きながら、ふと牛島の藤のことを思い出した。  
一本の藤を、長い年月にわたって守り続けた小島家の物語。  
その静かな誇りは、藤花園の中だけに留まるものではなく、  
春日部という街全体に、広く、静かに広がっているように思えた。

ふじ通りの藤棚を見上げると、  
そこには派手さはないが、確かな継承の気配があった。  
藤がこの街に根づいた理由が、少しだけわかった気がした。
 

園内を進むと、樹齢1200年の一本藤が姿を現した。

根元に近づくと、その構造に圧倒される。  
太い主根が地面から盛り上がり、そこから無数の側根が地表を這うように広がっている。  
藤は“木”ではなくつる植物だが、長い年月を経ると、つるが幾重にも重なり木質化し、まるで巨木の幹のような姿になる。

 



藤の幹は太く、ところどころでねじれ、長い年月を経た木だけが持つ質感をまとっている。  
しかし、藤は本来、自立して立つ植物ではない。  つるを伸ばし、他の木に絡みつきながら上へと成長する。  
だからこそ、藤棚という構造が必要になる。

頭上には、竹組みの棚が広がっている。  これは単なる“鑑賞用の棚”ではない。  
藤の重さを支え、枝を均等に広げ、花房が垂れ下がる空間をつくるための、精密な構造物だ。

特に牛島の藤のように巨大な個体では、枝やつるが木質化して非常に重くなる。  
その重さを支えるために、藤棚は毎年の補修が欠かせず、竹は定期的に組み替えられ、腐食した部分は交換される。

 



藤棚の維持は、見た目以上に手間がかかる。  藤は生命力が強く、放置すれば暴れ、棚を壊すほど伸びる。  
逆に、剪定を怠れば花がつかなくなる。  


「切りすぎても枯れる、切らなければ暴れる」という、絶妙なバランスの上に成り立っている植物だ。

この藤棚の下に立つと、  
1200年の藤を支えるために、どれだけの人の手が必要だったのかということが、自然と想像できる。

ひととおり園内を巡り、帰り際にもう一度、樹齢1200年の藤の前に立ち寄った。  
そのとき、立札に目が留まった。

そこには、「藤花園主 小島すいこ」と記されている。

 



この名前を聞いたことがあるわけではない。  
しかし、かつてテレビ番組で見た「一人の女性がこの藤園を守り続けてきた」という記憶が、ふっと蘇った。

あとで改めて調べてみると、牛島の藤は、国の特別天然記念物でありながら、行政ではなく個人が所有し、管理してきたという、きわめて珍しい文化財であることがわかった。  
文化庁の指定は「牛島のフジ(一本藤)」であり、藤花園という施設そのものではない。  
つまり、文化財としての管理責任は、すべて所有者に直接のしかかる構造になっている。

かつてこの地には寺院があり、藤はその境内に植えられていた。  
しかし明治の廃寺によって寺は失われ、藤は荒れかけたという。  
その藤を引き継ぎ、守り続けてきたのが「小島家」である。

藤棚の補修、剪定、土壌管理、病害虫対策、来園者の受け入れ——  
1200年の藤を維持するための作業は、想像以上に多く、重い。  
それでも小島家は、代々この藤を守り続けてきた。

国の文化財でありながら、その根元を支えてきたのは、一人の名も知れぬ女性の手だった。

その静かな誇りだけが、確かにここに息づいていた。

東武アーバンパークラインの車内で、ふと窓の外を眺めながら思った。  
春日部の隣町に十五年ほど住んでいるのに、「藤の牛島」という駅で降りるのは、これが初めてだ。

 



牛島の藤園の存在は知っていた。  
けれど、わざわざ降りる機会はなかった。  
駅名に“藤”がつくのは、この藤園のためだと理解していたが、実際に来てみると、駅前は驚くほど静かだ。  
観光地のざわめきはなく、住宅街の空気がそのまま流れている。

改札を抜け、Googleマップを見ながら歩き出す。  
道沿いには民家が並び、その庭先に、ふと藤の花が咲いているのが目に入った。


やがて、藤花園の入口が見えてきた。

 


 

ここには、樹齢1200年の一本藤がある。
「牛島の藤」と呼ばれ、国の特別天然記念物に指定されている。  
かつてこの地には寺院があり、その境内に植えられていた藤が、時代を越えて生き残った。  
現在は個人が管理する藤園として公開され、広い敷地に幾つもの藤棚が張り巡らされている。

藤棚の下に入ると、“藤の香り”が鼻先をかすめた。  

 


 

藤棚によって、花は、満開のものもあれば、まだ咲きかけのものもある。  

 


まだ咲いてないつぼみはナスのようにふっくらと膨らみ、  開花したものをよく見ると、紫、白、黄色、濃い紫色とグラデーションになっている。


この花は、ただ美しいだけの植物ではない。  
日本の文化史の中で、藤は特別な位置を占めてきた。

藤は古代から「高貴さ」の象徴だった。  
紫は最上位の色階級であり、藤原氏の家名・家紋にも使われた。  
藤を詠むことは、藤原氏の繁栄を詠むことと同義だった時代もある。

藤は木に絡みつき、上へ上へと伸びていく。  
その生命力は強く、放置すれば暴れ、手入れを怠れば枯れる。  

寺院の境内に植えられることが多く、つるが長く伸び、毎年必ず花をつけることから、  
「長寿」「繁栄」「祈り」の象徴とされた。

牛島の藤も、もともとは寺院の境内にあった。  
寺院の伽藍は無くなったが、藤棚は残り続け、季節になると紫色の美しい景色が人々を魅了し続けている。

参道を外れた先に、静かな水面がある。

木々の影が水に映り、揺れている。鴨が数羽、音もなく漂っていた。人の気配は少なく、森と水だけがそこにある。整備されすぎていない。神域というより、自然そのものだ。

 



神は、社殿の中だけにいるのではない。柵もなく、案内板もない。それでも、この場所には何かが満ちているような感覚があった。

参道脇に、桜が咲いていた。

青空を背景に、白に近い淡い花が枝いっぱいに広がっている。神域の中の桜は、少し場違いな華やかさがある。それでも違和感はない。

 



この桜には、神話がある。

山の神・大山祇神(おおやまつみのかみ)には、二人の娘がいた。姉のイワナガヒメは「岩」の神だ。岩は動かず、風雨にも崩れず、永遠にそこにある。妹のコノハナサクヤビメは「花」の神だ。美しく、華やかで、しかしすぐに散る。

ある時、ニニギノミコトがこの二人の娘と出会った。ニニギノミコトとは、天照大御神の孫にあたる神で、天上の世界から地上に降り立ち、日本を治めるよう命じられた存在だ。その曾孫が、初代天皇・神武天皇とされている。

その天孫ニニギノミコトは、美しい妹だけを妻に選び、醜い姉を父のもとに送り返した。その時、大山祇神はこう告げた。

「両方を妻に迎えていれば、あなたの命は岩のように永遠だったでしょう。妹だけを選んだあなたの命は、花のように儚いものになります」

ニニギノミコトはこの瞬間、永遠の命を失った。天から降りてきた神が、美しさを選ぶことで、死を抱えた存在になった。この神話は天皇家の起源を語りながら、同時に人間がなぜ死ぬのかという問いへの答えとして、語り継がれてきた。

そしてその神話の父・大山祇神(おおやまつみじんじゃ)が、この先の森の中にひっそりと座っている。



石積みの上に板塀。苔むした岩が土台を支え、木々の中にひっそりと収まっている。訪れていたのは、若い青年が二人だけだった。

この神を祀る神社は、全国に一万社以上ある。農村でも、漁村でも、鉱山でも。日本人の暮らしのあらゆる場面に、この神はいた。祀られる数で言えば、日本の神の中で五番目に多い。

それほどの神が、伊勢の森の奥でひっそりと座っている。多くの参拝者は正宮で手を合わせ、ここまで足を運ばない。存在すら知らない人も多いだろう。

それでも神は、そこにいる。

風日祈宮(かざひのみのみや)には、風の神が祀られていた。風は目に見えず、動き、吹き、消えていく。ここに祀られているのは、山の神だ。山は動かない。何千年もの間、ただそこに在り続ける。

風と山。神道は、動くものにも動かぬものにも、等しく神を見た。
 

五十鈴川に架かる風日祈宮橋を渡る。

 

石段を上がり、木の橋へと足を踏み入れる。緩やかに弧を描く橋の先には、さらに奥へと続く道が見えている。振り返れば人の気配はあるが、前方は静かで、どこか切り替わっていくような感覚がある。

 



橋を越えると、空気がわずかに変わる。人の流れも減り、より奥へと進んでいく感覚が強くなる。

境界とは、必ずしも目に見えるものではない。だが、確かに越えたという実感がある。

木々に囲まれた道を抜けた先に、風日祈宮(かざひのみのみや)がある。

 



茅葺きの屋根は重く、静かに地面に向かって広がっている。板塀に囲まれ、中を窺い知ることはできない。白い玉砂利が、音もなく足元に広がっている。派手さは何もない。それでも、ここには確かに何かが宿っているという感覚がある。


 

ここでは、風の神が祀られている。もとは農耕のための風雨を司る末社に過ぎなかった。だが1281年、元の大軍が押し寄せたとき、朝廷はこの社に勅使を遣わし、祈祷を行った。その後、嵐が艦隊を壊滅させた。人々は「神風が吹いた」と信じた——主に貴族や神官たちが。武士たちは自分の剣で戦ったと思っていた。それでもこの社は1293年、別宮へと昇格した。

姿を持たない風が、神として祀られている。形のないものに、名が与えられ、祈りの対象となる。

目に見えないものを、見えないままに受け入れる。その在り方が、神道の根にある。
 

正宮の近くに、御稲御倉(みしねのみくら)がある。

 



神に供える稲を納めるための倉であり、神宮の祭祀を静かに支えている場所である。目立つ存在ではないが、日々の営みの基盤となる場所である。

その先に、外幣殿(げへいでん)がある。

 



正宮の外側に位置し、神事に関わる建物である。

いずれも静かに佇んでいるが、正宮とは異なるかたちで、神と人の営みを支えている。

そこを過ぎ、荒祭宮(あらまつみや)へと向かう。



ここには、天照大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られている。

荒御魂とは、神の持つ活動的で、外へと働きかけ、物事を動かしていく側面を指すものである。

神の働きは、この荒御魂と和御魂(にぎみたま)に加え、幸御魂(さきみたま)、奇御魂(くしみたま)を含めた「四魂(しこん)」として捉えられることもある。

同じ神でありながら、その性質は一つではない。

正宮で祀られる天照大御神と、ここで祀られる荒御魂は、別の神ではない。

一つの神の中にある、異なる働きである。

 

人は、祈る内容によって、求めるものが異なる。
平穏を願うときと、変化を望むときでは、その対象も変わるというのは自然である。

そうした人の側の都合によって、神の働きもまた分けて捉えられてきたのかもしれない。

荒祭宮には、多くの参拝者が列をなしていた。

その理由は、当時の私にはよく分からなかった。

それでも人は集まり、祈りを捧げている。

何を感じているのかは分からない。

ただ、それぞれが何かを求めて、ここに立っているのだろう。
 

正宮を後にすると、すぐ隣に式年遷宮の跡地がある。

白い標柱が立ち、その場所がただの空き地ではないことを静かに語っている。周囲には木々がそびえ、整えられた地面だけが、不思議なほどに「何もない」空間を形づくっている。

 



ここは、かつて社殿が建っていた場所である。

伊勢神宮では、およそ20年に一度、「式年遷宮」と呼ばれる大きな儀式が行われる。これは、社殿を新たに造り替え、御装束や神宝も新調されるというものだ。

単なる建て替えではない。技術や精神、祈りのかたちを次の世代へと受け渡していく、日本でも特異な営みである。

直近では2013年に行われ、次回は2033年に予定されている。

新しい正宮が隣に建てられると、神様はそちらへ移られ、役目を終えた旧殿は解体される。そして、この場所には何も残されない。

ただ、空白だけが残る。

しかしその空白は、決して無ではない。ここには確かに神が鎮まっていた時間があり、祈りが積み重ねられてきた歴史がある。

目の前にあるのは、更地でありながら、どこよりも濃密な場所であった。

あと7年もすれば、ここには再び新しい社殿が建つ。

そう思うと、この「何もない状態」を目にしている今この瞬間は、限られた時間の中にしか存在しないことに気づく。

しばらく立ち止まり、その静けさを感じた。
 

御神札授与所の隣には、静かに佇む神楽殿がある。

 



神楽殿とは、参拝者が御神楽を奉納するための場所である。ただ手を合わせるだけでなく、より丁寧に、より深く祈りを捧げたい者は、ここで祈祷を受ける。御神楽はその中でも、最も格式の高い奉納のひとつに位置づけられている。

参拝者は「神楽をお願いします」と申し込み、神職や巫女、雅楽奏者が、その人に代わって神前に舞と音楽を捧げる。個人の祈りが、儀式として昇華され、神へと届けられる仕組みである。

華やかさというよりは、むしろ厳粛さが漂う空間であった。

そこを後にし、杉並木の道を進んでいく。まっすぐに伸びる木々の間を歩いていると、神聖な空気を感じる。

やがて「中重鳥居」に到着する。

 



ここから先は撮影が禁止されている。目に焼き付けることだけが許される領域である。そのためか、この階段の手前で足を止め、記念撮影をする参拝者の姿が多く見られた。

鳥居の先には、「皇大神宮 正宮」がある。

祭神は天照大御神。日本神話の中心に位置する存在であり、そのご神体は八咫鏡である。ここは伊勢神宮の中枢であり、日本の神社の頂点とも言える場所である。

正宮には、多くの参拝者が列をなしていた。

私はその列には加わらず、少し離れた場所から様子を見つめる。建物の隙間から、奥にある正宮をわずかに垣間見た。

それで十分だと感じた。

静かにその場を後にする。
 

御手洗場から神宮の奥へ進む。

御神札授与所の前に、長い行列ができていた。目当ては御朱印だ。

 



御朱印ブームが始まって久しい。
神社やお寺で参拝の証としていただく、墨書きと朱印の組み合わせ。
季節限定や地域限定のデザインも増え、SNSで拡散され、若い世代を中心に広がっていった。

インスタグラムに並ぶ、美しい御朱印の写真。
御朱印帳そのものもデザイン性が上がり、集める楽しみが生まれた。

単なるブームと片付けるのは簡単だ。
しかし、もう少し深く見ると、違う景色が見えてくる。

日本の神社は、静かに減り続けている。

文化庁の宗教統計調査によれば、全国の神社数は2015年に81,237社だったものが、2024年には80,569社になった。
9年間で668社が消えた計算になる。

原因は複合的だ。
人口減少と過疎化で氏子が減り、維持費が確保できなくなる。
宮司の後継者が不足し、1人で30社以上を兼務するケースも珍しくない。
小規模神社の合併や、祭りの休止が各地で起きている。

神社は単なる宗教施設ではない。
地域の祭りを守り、共同体の核として機能してきた場所だ。
それが消えるということは、地域の記憶が一つずつ失われていくことでもある。

そう考えると、御朱印ブームの意味が少し変わって見える。

参拝者が納める初穂料は、神社の維持費や修繕費、祭礼費の支えになる。
小規模な神社にとっては、文字通り生命線になることもある。

SNSで拡散された御朱印の写真が、若い世代をその神社へ呼び込む。
来た人が境内を歩き、手を合わせ、地域の文化に触れる。
御朱印はそのきっかけになっている。

さらに言えば、御朱印帳に刻まれた墨書きは記録でもある。
神社が合併や廃社になっても、誰かの御朱印帳の中に「その神社が確かに存在した」という証が残る。
神社減少の時代における、静かな存在証明だ。

ブームと呼ばれるものの中にも、人間の本質的な何かが宿っていることがある。
神社に足を運び、手を合わせ、墨書きをいただく。
その行為の積み重ねが、気づかないうちに神社文化を支えている。
 

2026年3月19日。

前日は名古屋で用事があり、翌日の土曜日に伊勢神宮へ向かうことにした。

近鉄名古屋駅から特急に乗り、五十鈴川駅に到着。

 



伊勢神宮は内宮と外宮の二つからなる。
本来は外宮から参拝するのが習わしとされているが、時間の関係で今回は内宮から向かうことにした。

バス乗り場に着くと、すでに観光客の行列ができている。
20分ほど待ったが、ようやく来たバスは満員で乗れなかった。
仕方なく、徒歩で向かうことにする。

30分ほど歩くと、伊勢街道「おはらい町通り」に入った。

 



一本道を進むにつれて、両脇の土産物屋や飲食店の数が増えていく。
それに比例して、観光客の数もすごいことになってくる。
平日とは思えない人出だ。

「おかげ横丁」に入ると、細い路地に人がごった返していた。

外国人観光客の姿も目立つ。
円安とインバウンドの波が、ここまで来ている。

それだけではないと思う。
近年、パワースポットや神社仏閣への関心が高まっている。
日本人が、何か目に見えないものを求めはじめている気がする。
伊勢神宮はその象徴として、人を引き寄せているのかもしれない。

宇治橋鳥居に到着した。

 



橋の上から見下ろすと、五十鈴川の水が透き通っている。
橋を渡ると桜の木があり、花が咲き始めていた。

 



神苑に入る。
砂利道の脇には、手入れされた松の木が並んでいる。
遠くに山、その中に日本の国旗が翻っている。

 



日本の中心に来た、という感覚がじわりと湧いてくる。

さらに進むと「御手洗場」があった。

宇治橋から見えた五十鈴川の岸辺に、直接降りられる場所だ。
目の前で見ると、水の透明度に息を飲む。

 



江戸時代、伊勢参りは庶民の一大イベントだった。
一生に一度、お伊勢さんへ。
東海道を何日も歩いてたどり着いた人たちが、この場所で手を清めた。

数百年前の人たちと同じ場所に立ち、同じ水を見ている。
美しいと思う気持ちも、きっと同じだったのではないか。

 



心が、すっと洗われるような感覚があった。