最後のエントリーが男闘呼組のまま、しばし放置してしまいました。
相変わらずわたしの脳内では、男闘呼組専門チャンネルは絶賛放映中であり、ライブDVDの入手とグループの再結成を静かに祈る日々ではございますが、ここらでちょっと話題を変えまして、先日行って参りましたボランティアの話など差し込ませていただきます。

今年初、というか前に大船渡に行ってからずいぶん間が空いてしまいました。
ずっと心に引っかかってはいたんですよね、次、いつ行くの? って。それがいったい、どういう声なのか、どういう気持ちなのか、義務感なのか、結局は東京で震災前と変わらぬ生活を送っていることの罪の意識なのか…自分でもはっきりとは分かりませんが、ただ、宮城、岩手と行って、福島だけ行かないのは不公平だろうということで、今回は南相馬市へ行ってきました。
いや、不公平という以前に、大したことないボランティア経験から判断するのも浅はかではありますが、わたしはガチンコ肉体労働系ボランティアの方が向いているという結論に達したのです。
しかし、現段階でそっち系のボランティアの募集は少なくなっており(こんなのいつ終わるんだと思っていたけれど、どこも収束はしつつあるのか)、あちこち探した結果、原発事故の影響で1年以上ボランティア活動のスタートが遅れた南相馬が、わたしの希望に最も合う場所だった、というわけです。

正直なところ、原発30km圏内の放射線量が不安でなかったわけではありません。
空気を吸うだけならともかく、泥出しや草刈りなどが必要な場所はピンポイントで線量が高いのではないかとビビってもいました。今さら簡易測定器を購入したのも、半ばお守りのような気持ちからでした。
それでも、今年の5月からボランティアが立ち入れるようになったということは、一般人でも作業が可能という判断がベースになっているはず。であれば、過剰に恐れることもあるまい。それも、たった2日のこと。
だいたい、あれほどあちこちでうるさかった線量のことを、普段の生活で正確に判断できているだろうか? 去年の梅雨あたりは、自転車通勤中に雨が降ってくるといつにも増して過敏になっていたけれど、それも今はなし崩し。世田谷の家屋で放射性物質が発見されたときくらいから、放射能のことを考えるのを放棄し始めたような気がします。あの時、世田谷に住んでいる知り合いのお母さんは、真面目に疎開を考えていたっけか…。

さて、週末や3連休程度のボランティアなど、1週間以上海外に行くことを思えば楽勝のように思えますが、アクセスを調べたり、作業内容を把握したり、保険に入り直したり、ボランティア用の持ち物や装備もあったりで、海外旅行と同程度の準備はかかるような気がします。
少なくとも、「そうだ、京都行こう」的な気軽なノリで、トートバッグひとつで行っても何とかなるだろうという感じではない。それもあって、ついずるずると“次回”が伸びたってのもあります。旅人としてけしからん腰の重さです。

時間的にもたいそう熟睡しづらい夜行バスで、福島駅に到着したのはなんと朝の4時半でした。予定時刻の5時でもうへぁと思っていたのに、何で30分も早く着くの!
このように、夜行バス明けは毎回つらい思いをするのですが、それでもこの安さと時間短縮から逃れられないわたしです。いい加減、新幹線を使えるようになれよ…。
まあ、夏のことなので空がそこそこ明るいだけでも救いです。とりあえず駅前広場に座ってみるものの、やることがないので測定器で線量を図ってみました。ちなみに前夜、自宅アパートで測ったときは0.05マイクロシーベルトでした。※以下、線量の単位はマイクロシーベルトでお読みください
えーと、0.55…東京の10倍ですか! いや、10倍ったって、もとの単位が小さいからそんなにおののくこともないんだろうけど…。ただ、線量が高いと云われている福島は、本当に東京よりも高いんだ…と、別に信じていなかったわけでもないけれど、はっきりと認識したことは確かです。西口から東口に移動しただけで、0.3とか0.4とかに下がったりして、なんとも曖昧でしたけどね。
週末の明け方だからか、この時間でも若い男女の集団がちらほら練り歩いており、別にヤンキーでもないのですが、長靴にザックというわたしの姿がみすぼらしすぎて絡まれないだろうか…と、線量よりそっちの方が不安になってきます(苦笑)。

放浪乙女えくすとら-RIMG0009 旅人の大先輩・松尾芭蕉先生と河合曾良先生。

コンビニのはしごで時間を潰し(スタバやドトールは7時からなのだ)、6時半のバスで南相馬へ。約2時間の旅路です。
途中、飯舘村も通ったようですが、寝ていたので気がつきませんでした。というか、ここに来るまで、ニュースで聞いた近隣市町村の位置関係すらきちんと把握できていませんでした。どこが何km圏内で、どこが警戒区域で、といったことも…。
事前に調べたところでは、南相馬市は福島市よりも線量が低いのです。原発の風上に位置するためでしょう。それでも、4月までは立ち入りできなかった地域です。
原ノ町駅に着くと、ボランティアセンターからの送迎車が停っていました。送迎といっても、もちろんボランティアの有志が車を出してくれているのです。今回は、わたしと同じルートで来たらしいボランティアの人が、他に3人いました。
ボランティアセンターがあるのは小高区です。ボランティアを調べていた段階でちょっとややこしいなーと思っていたのですが、現在、南相馬には2つのボランティアセンターがあり、ひとつは社協が運営している鹿島のボラセン、もうひとつは松本さんという有志が中心となっている小高のボラセンです。ボラセン同士でHPのリンクも貼られているので、余計に混乱、というか実際、現地に来るまで区別はついていませんでした。地区も、原ノ町駅を挟んで東西に真逆なのですね。

「ここからが元警戒区域です」と運転手の男性が教えてくれます。
国道6号線の道路脇には草木がわんわんと生い茂り、歩道橋は錆び付いていました。
ガソリンスタンドやホームセンターの周りも、まさに手付かず状態で草が伸び放題。ガードレールは曲がったまま。それでも、遠目で見る住宅地は、何の予備知識もなければごく普通の町の風景に見えます。しかし、住人が町に入れるのは昼間のみ。夜になると仮設住宅や避難所に帰らなければならないそうです。

ボラセンには、すでに50~60名くらいのボランティアが集まっており、朝礼が始まっていました。
今回も側溝の泥かきかなと予想していたら、初の草刈りチームに配属されました。草刈正雄好きとしては喜ぶべきでしょうか。
1年以上も立ち入り禁止になっていたこの地域では、草が伸び放題に伸びているため、兎にも角にもそれらを除去することが火急の仕事のようです。
確かに…耕作放棄された田畑は、もはや田畑とも空き地ともつかない状態。ボラセン裏の公民館のような建物も、無精ひげのような雑草にうっすらと覆われていました。

今回のチームは13人。圧倒的多数の男性陣は、草刈機を使って田畑の草刈を、今日来たばかりの女性3人(わたし含む)は、依頼宅の家屋周りのゴミを拾ったり、たまった砂を掃いたり、ガレージの雑草を引っこ抜いたりといった雑用をこなしていました。
レインスーツの上下を着込み、マスクにゴーグルにゴム手袋と完全武装サウナ状態でしたが、曇天が幸いして、暑さでフラフラになるようなことはありませんでした。
この辺りは海から約2kmだそうで、津波の大きな被害は受けなかったようです。家のタイルは少し剥がれおちているものの、水に浸かった形跡はなさそうでした。

昼休憩の間、周辺を少し歩いてみました。
6号線を走る車の音だけが絶えず聞こえてきますが、人の姿はほぼ見えません。音が、というよりも風景が、異常に静かでした。
荒廃した家屋。津波で流された車。1年前に石巻で見た光景が、目の前でフラッシュバックするかのように広がっていました。過ぎた時間の分だけ、草木に覆われている分だけ、生々しさが幾分削がれているけれど、むき出しになった家の中には、きれいに吊るされたままのシャツがぶら下がっていたりして、火事場泥棒が未だに後を絶たないというのも、残念ながらうなづける様相です。
“1年遅れのスタート”と、ボランティアの誰かが云った言葉が、重たく響きます。
人の時間が止まっても、自然は淡々と着実に時計を進めていくようで、モノクロの写真に、そこだけ色がついたように鮮やかに咲く花が、目に突き刺さるようです。
反原発デモとか、夏の節電とか、オリンピック目前とか、話題の映画とか…この静かすぎる場所に立っていると、世の中で華やかに騒がれていることが、すべて幻のように思えてきます。と同時に、わたしもまた、いかに震災から遠ざかった思考と態度で暮らしていたかということを省みます。別に、わたしのせいで震災が起きたわけではないにしろ、なんかどうも、意識的に目を逸らして暮らしているようなところはあるなと、それって少し後ろめたいよなと、思うわけです。

ちなみに、散歩中、線量を測ってみましたが、確かに福島駅周辺の半分くらいでした。草が多いからもっと高いと思ってたな…。なんか、これならそんなにビビる必要もなかったのかも。だって、毎時0.25とすると、1日で6でしょ、東京-ニューヨーク間の飛行機に1回乗って200ってことを考えたら、週末にちょろっとボランティアに来るくらい、そんなに大したことないんじゃないの…ってのはちょっと安易すぎるのかしら?

つづく

放浪乙女えくすとら-RIMG0022