コンビニが1軒も見当たらなかった五島から4日ぶりに長崎に戻ってくると、この旅でいちばんの快晴とも云える天気、観光客でにぎわう出島周辺……なんとも隔世の感があります。


放浪乙女えくすとら-back to nagasaki005 長崎はいい天気。


今日は長崎を経由して、島原へ向かいます。
この旅程に島原を組み込んでいるのは、ひとえに友人の「温泉に浸かりたい」という希望を叶えるためですが、もう一つ、熊本から帰ることになるなら島原→熊本だとアクセスしやすかろうという計算もありました。
しかし、ここへ来て思うのは、五島から島原という流れは、案外スジが通っているのかも?ということです。軍艦島はともかく、この旅の背中に1本の糸が通っているとしたら、それは“キリシタン”であり、島原の乱が起こった島原は、旅の終着点としてふさわしい地ではなかろうか、と。うん、我ながら悪くない旅のストーリーだぞ。


その気分に水を差す出来事があったのは、ちょうどお昼どきでした。
友人が見つけたいい感じのカフェで、昼食を取ることにし、長崎の復習と島原の予習がてら、「るるぶ」を見ながらあーでもないこーでもないと話していると、お店の店長さんが、「ご旅行で来られたんですか?」と親しげに話しかけてきました。
われわれは、ここまでの旅程をざっくりと話し、さっき五島から戻って来たんですと云うと、
「五島に3日も居たんですか!? 長崎には、ほかにもたくさん見どころあるのに、もったいないですよー。五島に住んでいる友達は、あまりに何もないからって週末は毎週こっちに来てますよ。教会群が世界遺産候補なんて云ってるけど、あれは長崎県がゴリ押ししているだけなんですよ…云々」
著しくテンションを下げるコメントが返ってきました。
そこで友人がまた「そう思います? 五島には本当に何にもなくって、雨には降られるし…」と調子のいい感じでつなぎ、やっぱり地元の人の話を聞いて上手に旅行しないとダメですね~などと云い出したので、わたしはだんだん笑顔が引きつっていくのを感じていました。


その人は、自分は旅の前に必ずチャット(?)でその土地の人にあれこれと質問して友達になるので、宿だの足だのメシだのがタダになって、安上がりで、ローカルしか知らないような場所に行っている…というようなことを楽しそうに語りました。
何だかまるで、「るるぶ」を広げているわたしたちがバカみたいじゃないですか。。。
わたしは、旅行における“地元へのこだわり”を否定するつもりは毛頭ないし、地元の人がおいしいという店=きっとおいしいという公式を疑ってもいませんが、さりとて、何でもかんでも地元視点が100%正しい、地元原理主義者でもないのです。
そりゃ、「るるぶ」に頼りきった旅はつまらないかもしれないけれど、大阪の人間がいちいち大阪城をありがたがらないように、地元に住んでいるからあまり観光地に重きを置いていないということもあるんじゃないでしょうか。
だって、地元は“日常”の場です。地元の人からすれば「こんなものを有難がるの?」と思うような場所やモニュメントが、観光客にとっては何としても見たいものかも知れないじゃないですか。それが著しく地元の見解とかけ離れていたって、別にいいじゃないですか。
それに、もうひとつ云いたいのは、別に得するために旅しているわけじゃないというか(無論、得は大歓迎ですが)、得するために旅先で友達を作るっていうのはなんか順番が違うんじゃないのか、という気がしないでもないのですが、どうなんでしょうか…。
ま、そういう旅ができないタイプのわたしが、何を云っても僻みにしか聞こえないのですけど(苦笑)。


…いや、そんなことよりも目下の問題(?)は、五島に3日いたことが何やら間違いであったかのような流れですよ。っていうか友人! 君が納得してどうするんだ! ここへ来て五島の旅を全否定かよ!(←そこまで云ってない)
別にいいじゃん…五島に何日いたって。個人的には、あと1日居て全教会を制覇したかったくらいに思っていたさ。
よしんば長崎県にまんまと乗せられただけだとしても、いいんだよそれは。世界遺産候補になっているから見に行ったわけじゃないもの。むしろそんなことは知らなかった。軍艦島だってそう。美しく撮られた写真を見て、ここに行きたいと思っただけの単純な話なのです。
まあでも、それはそれでわたしの見解にすぎない。友人は五島に3日もいたことを今さら残念に思っているのかもしれないけれど、それを責めることはできないもんなあ…。
…って、また無駄に気分が下がっちまったい。もう明日で旅行も終わりなんだから、あんまりいろいろ深く考えないでさ、気にせず楽しくやればいいんだよー。イヤなことからはなるべく目を逸らそうよー。


きっとわたしがモヤモヤしているせいで、何となく盛り上がらないまま(苦笑)、夕刻前に島原に到着しました。
この日の宿は、本ツアー最高のお値段を誇る「南風楼」です。1泊1人20000円!!! 最終日にかこつけて、後は野となれ山となれ価格です☆ ってか、雲仙・島原方面でほかに予約で空いている宿もなかったの。。。
老舗の温泉宿という勝手に抱いていたイメージとは違って、いかにも昭和後期の風情を漂わせるベタな大型ホテルですが、このちょっとひなびた感じは懐かしく、遠い日の家族旅行を思い出させます。
友人は、ホテルに着くとさっそく温泉に入る準備を始めたので、わたしはスーパーで買いたいものがあるのを思い出し、外出ついでに島原の町を少し歩くことにしました。
すでに夕闇が背中に迫る中、何となく観光名所を気にしながら歩いていると、教会の丸屋根が見えました。島原カトリック教会です。
中に入ると誰もおらず、録音の讃美歌が静かに流れているだけでした。薄暗くなった堂内は、ステンドグラスの色だけが強烈に光彩を放っていましたが、よく見るとその絵のいくつかに日本人の殉教の様子が描かれていました。ギョッととしつつもしばらく眺めていたのですが、讃美歌の響きがだんだん息苦しくなってきて、潜水から上がるようにして外へ出ました。



放浪乙女えくすとら-shimabara026 雲仙の大殉教を表したステンドグラス。


翌日は、最終日というのに特に予定も立てず、チェックアウトの10時に背中を押されるままに出かけました。
友人は昨晩、わたしの持ってきた『旅する長崎学』というガイドブックを熱心に読んでおり、その流れもあってか「島原城にキリシタン博物館があるみたいだから、そこに行こうよ」ということになりました。
わたしはというと、昨夜からぼんやりと、原城址に行くかどうかを思案していましたが、今はかの地には何もなく、島原鉄道も廃線になっているとあってアクセスにも時間がかかりそうだと分かって、決めかねていました。熊本行フェリーの出る島原港へは、午後4時前に着きたい計算です。島原城に行ったら、もう原城址はあきらめるしかなさそうだな…と思いつつ、キリシタン史料館には大いに食指をそそられたので、とりあえず島原城を目指します。
昨日、夕暮れ時の街を歩いたときは、軒並みシャッターの下りた商店街がいかにも地方都市的哀愁を漂わせて寂しく見えましたが、よく晴れた昼間はそれが長閑さに取って代わって、夏休みに田舎に来たような気分です。


キリシタン史料館は、島原城の2階にあります。
まず目に入ってきたのは、昨日見たステンドグラスの解説でした。あの絵は、1632年に起こった雲仙大殉教を描いたもので、殉教者の一人、パウロ内堀の生涯について説明がなされていました。
殉教のエピソードというのはだいたいえげつないものですが、彼の子どもアントニオ(5才)が、拷問で手の指を1本1本切られ、鮮血で真っ赤になった傷口を、泣きもせず「まるで美しい薔薇を見るかのように」見ていたという記述には、目まいがしそうになりました。痛ましいのを通り越して、いったいこれをどう理解したらいいのか、わたしには分かりません。
一方、その近くでは観光客の子どもが、ザビエルの肖像画の前で母親に「ねえねえ、どうしてこの人はハゲてるの?」と尋ねていました。思わずズコーッ!と脱力しつつ、まあでもこれが普通の子どもだろう…と妙にホッとします。

放浪乙女えくすとら-shimabara039 島原城。見事な石垣は当時のまま残っている。


キリスト教伝来に始まり、天正遣欧少年使節、島原の乱まで、決して大きくはない規模ではありますが、古田織部のキリシタン燈籠(『へうげもの』の影響で思わずニヤリとしてしまう)、マリア観音、納戸神、踏絵…物と物を結ぶ線から歴史が浮かび上がってくるような、見ごたえ十分の展示でした。
その後、併設のさまざまな展示を見ながらも、心は上の空でした。何故なら今、この展示を見た後こそ、原城址に行きたい、いや行くべきだと強く思ったからです。ときは今(by明智光秀)。
しかし、わたしに輪をかけてじっくりと展示に見入っている友人は、なかなか史料館から出てきませんでした。原城へのアクセスはいちおう調べてあり、路線バスが1時間に1本程度の割合で出ています。
ようやく現れた友人に、わたしは「やっぱ原城に行きたいんだけど、君はどうする?」と尋ねました。友人は少し考え、自分は街なかを散策すると答え、船出まで袂を分かつことになりました。
最終日の最後で別行動ってのも愛想のない話だな…と、一瞬苦い気持ちになりましたが、いや、かえってこの方がお互いのためだと思い直しました。
何しろ、バスの本数が少ないだけでなく、原城までも片道50分かかるのです。時刻表を穴のあくほど見た結果、現地で滞在できる時間は30分にも満たないことがわかりました。そうすると、友人の遅すぎる歩行速度では、とても一緒に観光などできません(笑)。


有明海沿いの道を走るバスは、長閑すぎる風景の中どこまでも南下を続け、このまま地の果てにでも向かうのかと思うほどでした。
陽光にきらめく田舎道。時間さえあれば、路線バスの旅っていうのも悪くないな…。しかし、さすがにこんだけの距離を走ると路線バスの運賃ってすごいことになるな…(ちなみに原城まで往復1800円)。
「原城前」バス停で降りると、ご親切にも「原城跡」というデカい看板が出ていました。おお、目の前で停まってくれるなんて大助かりですう! とホッとしたのもつかの間、どうやら本丸跡まではだらだらと坂道を上って行かねばならないことが判明。。。これ、帰りのバス間に合うのか?!
本丸跡までは、平和を絵に表したらこうなりそうな緑の田園風景が一面に広がっています。いちおう原城址内なのでしょうが、普通におばあちゃん、畑耕してるし!


放浪乙女えくすとら-shimabara079 本丸が蜃気楼のように遠い。。。


暑い、あぢい、と犬のように舌を出しながらひたすら本丸を目指します。バス停から10分強はかかったでしょうか。
本丸跡は、まさに“跡”でした。低木が植えられた石垣の上の台地には、白いクルスの慰霊碑、天草四郎像、そして天草四郎他の小さな墓石があるのみです。東側は絶壁で、眼下に有明海のブルーが広がるさまはなかなかの眺望です。
わたしは、ひととおりこの地を味わうために、台地の端から端まで小走りで駆けめぐりました。走っていると、何故か島原の乱の雑兵にでもなったような気分になり、かつて自分は本当にそうだったのではないか、などと無理やりこじつけたくなるのでした。
快晴ということもあり、また短時間だったこともあり、3万人もの死者が出た古戦場という陰鬱さはさほど感じません。しかし、低木が地面に落とす影のせいで少し薄暗い様子や、海からの風が葉っぱを揺らす乾いた音は、少し不気味です。
ちなみにここでも、無邪気な子どもが天草四郎像を見て、「ねえ、これ桃太郎?」と尋ねていました。確かに、この四郎像はふっくらしすぎていて、伝説どおりの美少年のイメージからは遠いかもな…。

放浪乙女えくすとら-shimabara109 桃太郎こと天草四郎。


放浪乙女えくすとら-shimabara119 本丸の入口にある、ホネカミ地蔵。島原の乱の130年後に、慰霊碑として建てられた。「ホネカミ」とは、骨をかみしめる=自分自身のものにする、人々を救済するという意味だそうです。


さて、わたしが原城址を駆けずり回っている間、友人は、とある喫茶店に入って、そこの女主人と遊びに来ていた友達の会話に混ぜてもらい、何だかいろんな話を聞いたようです。
友人が「一緒に来た友達が今、一人で原城に行ってまして」と話すと、女主人は「まあ、そのお友達は、きっと原城にとても深い思い入れがあるのねえ。だってあそこは何もない場所だもの。きっと熱心なカトリック信者の方なのね」としみじみ感じ入っていたそうです。
あああ、すみませんぜんぜんそんなんじゃないんです!!! どんな場所にも足を運びたいだけの旅人病なんです。。。
むしろ、わたしの宗教観というのは、無節操どころの話ではないほど、あやふやで貧弱なものです。教会巡りは好きだけどキリスト教徒ではないし、家族のお葬式が仏式だからと云って仏教徒とも断言できないし、イスラムの国が好きでも、ムスリムにはなれない。
旅先でさまざまな教会やモスクや寺や聖地に、あくまでもお気楽観光客として足を運ぶわたしにとって、どの宗教を信じるかというのは非常に難しい問題です。その代り、どの宗教施設に行っても特別な違和感を覚えたことはなかったし、どんな宗教でも“祈り”という共通点によってつながっているという気がするのですが、どうでしょうか。まあ、明確に汎神論者ってわけでもないんですけどね。


その人の話では、島原のキリシタンは壮絶な弾圧と戦乱で壊滅し、島原には教会も全く残っていないそうです(島原カトリック教会は1997年の創立)。
この辺りの旧家では、しめ縄を1年中軒先に飾っており、わたしも散歩中に1軒の家でそれを見かけたとき「何だ?」と不思議に思ったのですが、これは禁教時代に「うちはキリシタンじゃありませんよ」と表明するための習慣で、未だにそれが残っているのです。そういう家の造りはたいてい、玄関を入るとすぐ左脇に神棚や仏壇が備えつけられているのだとか。
長閑な田舎町の下に眠る、凄まじい歴史の渦と悲しみ。今ここに住む人たちが日々それを感じて生きていたら大変ですが、土地が背負っているものというのは、確実に存在している。だから、「教会群を世界遺産に」と長崎県が必死に宣伝しているとしても、それには相応の理由があるのだと思います。
「若い人がこうして島原に来て、歴史を勉強してくれるのはとてもうれしいわね」とその女主人は、友人に話したそうです。


放浪乙女えくすとら-shimabara068 小さな小さなバス停。


…友人の話を聞きながら、わたしは新たな感慨を抱き始めていました。
こうして体験を分け合うというのも、なかなか悪くないもんだ。同じものを見るだけではなく、それぞれが別の場所からみやげを持ち帰って来るっていうのも、2人旅の楽しみ方なのかもしれないな。
ま、最初は、わたしと一緒じゃない方が、旅が充実するんじゃねえの? などとひねくれた疑いを抱いて勝手に寂しくなっていましたがね(苦笑)。うーん、嫉妬深くて女々しい男みたいな性格でイヤになるわ!
わたしが交代で原城址の話をすると、友人は「君はさ、旅のことになるとすごいエンジンがかかるよね。きっと旅が本業なんだね。毎晩遅くまで日記を書いているのを見てもそう思うよ」と笑いました。
本業はいくらなんでも違うけれど、旅先でのわたしは、確かに異常に元気です。ま、精神的にはかなり波があるものの、体はすこぶる快調で、食欲もあるし、かと云って多少食べなくても平気だし、睡眠時間はいつもより少ないし、頭痛や胃痛もないし、どこまでも歩けるし、運転もそんなに苦じゃないし…何だか危ない注射を打っている人みたいです。
最も、ピーク時の旅行がこんなに不得手だとは思わなかったけどね! 今回、大いに反省すべき点のひとつです…。


東京に帰り着いたのは、夜の12時を回る頃でした。
友人は極狭のわがアパートで1泊し、翌日の昼過ぎに仙台に帰って行きました。
東京駅の改札口で、友人の背中を見送った瞬間にこの旅は終わりました。しかし、もしかすると、ここまでの旅路は実は、壮大な序章に過ぎなかったのかもしれない…。そう、この旅はわたしに大きな置き土産を残して行ったのです。それはいったい何だったのか…待て次回!(まだあるんかいーーー!)


<今回の旅程>
1日目…東京→熊本(経由のみ)→長崎
2日目…長崎市内観光&軍艦島クルーズ
3日目…長崎→福江 福江島一周
4日目…福江 教会めぐり
5日目…福江島→若松島(経由のみ)→中通島 教会めぐり
6日目…中通島→長崎→島原
7日目…島原観光→熊本(経由のみ)→東京