朝起きたら、さわやかすぎてめまいがしそうなほどの晴天でした。というか、部屋の中が眩しくて目が覚めたのです。
雨、止みやがったのか…!!!
本来なら喜ぶべきところなのに、湧き上がってくるのは苦虫を噛み潰したような憤懣。無理やり二度寝に入ろうとしても寝付けません。
毎朝起床が早いのでたまにはゆっくり寝たいという友人に、まあ明日も雨だろうからどうぞごゆっくり、と云ったのに、今すぐにでも旅立たねばならないほど晴れているなんて。とりあえず、あんな豪雨の中とは云え島も一周したし、今日はコンカナ王国で読書でもしながらダラダラ過ごすんじゃなかったのか。何たる皮肉!実に呪わしい。何がって、己の判断の悪さが。この晴天の中、もったいなくもクカクカと眠りこけている友人の姿にも、無性に腹が立つ始末です。


それでも、晴天というのは人の心を寛大にさせるもので、昨日のさまざまな悪夢が胸によぎりながらも、再び図々しくレンタカーを借りて(もちろん別のレンタカーショップです;)ビーチに繰り出すことにしました。
途中の大きなスーパー(島の台所って感じですね)で食料など買い込んで、車の少ない晴れた道を走っていると、ようやくドライブ旅らしくなってきました。眩しい空、輝く緑。北海道のように空いた道。
「これだよ。われわれが求めていたのは、こ れ な ん だ よ!!」


放浪乙女えくすとら-fukue182 ぱかーん


友人と手を取り合わんばかりに喜び、ウキウキとビーチを目指していると……あれ?? 向こうのほうから鉛色の雲が……。
みるみるうちに閉ざされる青空。山を走っているからよね?きっとそうだよね? という慰めの呟きも空しく、ビーチに到着する頃には、一分の隙もなく灰色の雲が空を覆っていました。


放浪乙女えくすとら-fukue187 どよーん


昨日も居た管理人さんがわたしたちに気づき、「あれ~また来たの? さっきまではホントに晴れとったのになぁ」。
あ、ははは、あはは、そうですよね、この辺もさっきまでは晴れてましたよねきっと…(泣)。
しかも出がけは、半袖1枚でも暑かったのに、気温もぐっと下がってビーチにはびゅうびゅう風が吹きさらしています。
渚の少女を気取って薄手のリゾートワンピースを着用してきた友人は、痛ましい様子でビーチを歩いていました。不運、ここに極まれり…。


放浪乙女えくすとら-fukue217 展望台(魚らん観音)からの眺め。昨日よりはキレイだ…と、思う…。


気を取り直して、昨日食いっぱぐれた道の駅のビュッフェで昼食を取り、あとは行きそびれた教会を巡ります。とは云え、天気が不安でいっぱいなので、そうあちこちは行けません。
…いや、わたし一人なら、大瀬岬にまで暴走した可能性も充分あります。昨日、堂崎教会で巡礼スタンプ帳付きのミニ写真集を購入したために、島の教会を全制覇したい衝動がフツフツと煮えたぎっているのです。
しかし、用心深い友人に「無理しない方がいい」と諭され、事故っている手前、わたしの方が無理にでも引き回すというわけにもいきません。(とても「大丈夫だって♪」とは云えない!)
とりあえず目的の貝津教会へ行くにあたっても、看板が出ていたにもかかわらず、妙なケモノ道に入ってしまったり、行き着いた先がゴミ処理場だったりと、不安きわまりない道行きです。
いちおう、ナビに従っているんだけどなあ…? そういえば、レンタカー屋の人が、道の駅がある三井楽エリアは、自衛隊の基地があるためにナビが誤作動しやすいって云ってたっけ…。ここは三井楽からは外れているけれど、そういうことなのかな。


放浪乙女えくすとら-fukue234 急に迷い込むジャングル的なエリア。鳥が自生してました。


ステンドグラスが美しい貝津教会、レンガ造りの楠原教会、そしてその近くにある楠原牢屋跡(おっとまた牢屋だぜ)、福江教会…いずれも地元感漂う小さな教会ですが、それだけに祈りの場としての純粋さが保たれている印象を受けます。中にいると、現世的な何ものからもシャットアウトされたシェルターにいるような感覚を覚え、キリスト教徒でもないのに敬虔かつ静粛な気持ちになってくるから不思議です。
これらの教会は、いずれも明治時代に信仰の自由が認められてから現代に至るまでの間に建設されたものですが、それまで百年単位で弾圧を耐え忍んできた人々の思いが、ひとつひとつ、花が咲いて実った成果なのだなと思うと、信者ならずとも感慨深いものがあります。

ところで、教会というのはすべからくキリストに捧げられているのかと思っていましたが、五島の教会はさまざまな聖人に捧げられています(五島に限った話ではないのでしょうが)。例えば堂崎教会は、長崎の二十六聖人殉教者に、水ノ浦教会は被昇天の聖母に、貝津教会は聖ヨハネに…といった具合。聖母にもバリエーションがあったり、“イエスの御心”が教会の保護者だったりと、なかなか生半な知識では理解が及びません。


放浪乙女えくすとら-fukue275 貝津教会。


放浪乙女えくすとら-fukue299 楠原教会。


放浪乙女えくすとら-fukue312 福江教会。



放浪乙女えくすとら-fukue302 牢屋跡内。簡素な祭壇に飾られた花やロザリオの静かな佇まいに、何だか禁域に足を踏み入れているような感覚が…。


暗くなる前に大人しくレンタカーを返し、コンカナ王国へチェックインしました。
ああ、あの教会も行きたかったな~…とぼんやり過去を振り返っているわたしに、友人が「明日の計画立てないと!」とせっついてきます。
どうも、フロントの人の話だと明日からGW後半が始まるのでどこも混むのでは、とのこと。明日、上五島の中通島に行く予定にはしていますが、手配関係は一切やっていませんでした。
あーうるせーなー、とか思っていたのも束の間、いざホテルのPCで手配を始めると、まず福江→奈良尾(中通島)のジェットフォイルがすでに満席。ホテルは2軒断られ、3軒目でなんとか確保。
ほれ見たことか、なんて意地の悪いことを友人は云いませんが、もうここで最終日までの足と宿は全部確保しないとヤバイでしょ、という話になり、結局それで2時間近くを費やすハメになりました。最も、最終日の島原(雲仙)に関しては出発前からすでに、ネットで予約できるホテルはすべて満室だったので、直前の空きを狙うか、現地のしょぼくれたビジネスホテルでもないもんかと考えていたのですが…。


せっかく、くつろぐためにこのホテルにしたのにね。わたしが手配を怠ったせいで、直前で奔走することになるなんて、バカみたい…。
いつものオフシーズン個人旅行の感覚で、行きゃ何とかなるでしょと、GW中の旅行の難しさをナメきっていたことに、今さら激しい羞恥が湧いてきます。
そもそも…ここまで、大して安上がりってことでもなければ、絶景が見られているわけでもなく、のんびり心の洗濯ができるようなこともなく…。まして、旅の間はなぜか異常に元気で体力が有り余っているわたしの基準で行動しているわけで、こういったすべてのことに対して、友人は内心、うんざりしているのではなかろうか?


などと、友人に気を遣っているようなフリをしつつも、わたしの方こそ、友人の行動にいちいちケチをつけたり、舌打ちしたりしているので、相手の気持ちが余計に不安に感じられるのです。
わたしと友人はその昔、イギリスの語学留学で会って以来の付き合いという、なかなか長い関係であり、お互いにとって数少ない、無遠慮に接することのできる間柄であります。
気を遣わないでいられる、というのは素敵なことではありますが、ついつい行きすぎて傍若無人に振舞ってしまうという負の側面があることも否めません。
例えば友人には、風呂と化粧が異常に長い、歩くのが異常に遅いといった特徴があります。
それでわたしは、「なあなあ、いったいどこに何を塗ったらそんなに時間かかんの?」とからかったり、友人を30メートルくらい引き離して先に歩いたりと、なかなかひどい仕打ちを喰らわせているのですが、まあこれは、出会った当時から、関西人=イジる人、東北人=イジられる人という役割分担が出来上がっているのでよしとして(?)、でもそれをいいことに図に乗りすぎているのか? と、ふと冷静に考えたら怖くなったりもして。


しかし、それ以上に問題なのは、例えば「化粧が長い」ことに対して、からかえているうちはいいけれど、本気でイラつき始める自分ってのもいるわけです(だいたい30分過ぎたくらいから)。
また、友人は友人でズケズケものを云うので、例えば急に「道聞くのあたしばっかじゃない?」などと云われると(それも悪気なく)、カチンとこないわけにいかないのです。言葉の分からん外国じゃあるめえし、いくらわたしが引きこもり予備軍だからって、日本人に道を聞くくらいでけるわい!
…などと、冗談で済まされないほど機嫌がヤバくなってきたら「とにかく黙る」という、ある意味とても感じの悪い対処に入るしかなく、しかしそこでまたご丁寧に「ねえねえ、機嫌悪いの?」と尋ねてくるので、さらにイラ立ちがドアを叩くのです(引用:「runnning to horizon」)。
ああ、機嫌が悪いさ。だけど、友人に対してという以上に、そんなことですぐに心が曇る自分に対して、っつうのもあるわけだ。


東北で地震が起こって、3日近く携帯が繋がらなくて、やっとメールが来たとき、「生きててくれてよかった…」と、心の底から思ったはずの友人なのに。
母親が死んだとき、平日だってのに仕事を休んで、東北住まいだってのに大阪まで来て、葬式に出てくれたことがあった。それが心の深いところに刻まれて以来、もし誰かのことを親友と呼んでいいのならそれはきっと彼女のことだ、と今に至るまで思ってきたのに(ある意味、単純でゲンキンな話だけど…)。
そんなに大事で、気心知れている友人とでも、一緒に旅行するのは無理なのか? 一人の自由さにかえって囚われすぎて、心が不自由になっているのか? …そうかもな。そもそも、ワガママだからひとり旅を好んでいるんだもの。孤独よりも、不自由の方が耐えられないから。
それでも、エリさんとブータンに行ったときは、そんな面倒くささは感じなかった。あれはツアーだったってのもあるし、お互いの旅のペースや旅先で反応するものが近いこともあるんだろう。友人とは、そこら辺にけっこう差異があるせいもあるんだろう。
でもそんな差異なんて当たり前だし、彼氏にだってもうちょっと遠慮と節度を持って付き合ってるのにな(笑)。斎藤和義じゃないけれど、「やさしくなりたい」よホントに。仮にも教会巡りに来てんのにさ…。心が静かなのは、教会の椅子に座っているほんの数分だけか(苦笑)。


「わたしと旅行してて楽しい?」なんて、「わたしと仕事とどっちが大事なの?」に匹敵する愚かな質問です。
そうと承知しつつも、わたしは尋ねずにおれませんでした。旅行先を長崎に決めたことや、そのわりに穴だらけの旅程になったこと、友人に対して不親切きわまりないこと(苦笑)……すべて引っくるめて、それでもなお、わたしは友人から「楽しい」という言葉が聞きたかったのかもしれません。
友人はひと言、「正直に話してくれてうれしいよ」と云って、自分もGWに旅行に誘ったことを負い目に感じていたし、ワガママなのもお互いさまだからいいんじゃないの、というようなことを話しました。
「いつかまた、一緒にハワイも行こうよ」という友人の言葉で、わたしが心の中で、勝手に固まらせていたものが、氷解していくような気がしました。


明日からは、もうちょっとやさしくなれるだろうか。なれるといいな…。
なんかいつも、そんな決意をしては破っているような気が、しないでもないけれど。


(しかし、こうして書き起こしていると、ただの痴話げんかのようですね。。。)


放浪乙女えくすとら-fukue257 貝津教会・ステンドグラスの窓辺。