気持ちが上がらないのには、それなりに明確な理由もあって、例えば”お笑い番組が見られない”という些細なものから、”これだけのブランクが空いてちゃんと仕事ができるのか不安”みたいな真面目なものまで、さまざまに絡み合って、”内定ブルー”という言葉に集約されているのですね。


誰も頼んでいないのに、理由を挙げていくと、


①関西から離れるのが寂しい
②父ちゃんが一人になるので心が痛む
③これまでのぬくぬくした生活が名残惜しい
④お笑い番組が見られない&ライブに行けない(特にチュートリアル関連)
⑤新しい職場に馴染めるか、仕事がまともに出来るか不安
⑥自活していけるのか不安


まだまだありそうですけど、大体こんなところです。


前々からちょこちょこと書いていましたが、わたしは帰国してから、これまでにないほど”好きやねん関西”モードに入っており、前回の就職騒動でいったんは吹っ切れたものの、またここに来て再燃しちまっているようです。。。この辺の執着ぶりは、こっちの友人ですら首を傾げるほど。
まあ、何ごとも終わりに近づくと美しく見えるという、”最後マジック”の作用が、かなり大きいとは思うものの…。


10月に上京した帰り、環状線を待って大阪駅のホームに立っていたときのあの安堵感を、今でも鮮明に思い出します。
町が自分の身体にすっと馴染む感触、とでも云うのかな…ここにあれがあって、あそこに何があって、っていうことが、全部(でもないけど)把握できる心地よさ。お気に入りの店があって、お気に入りの道があって。これは、旅で見知らぬ町を歩く楽しさとは、真逆のものですが、どちらも素敵なものだと思います。


ある友人に云われました。
「なんか、東京に対する敵意のようなものを感じるなあ…」と。
この友人は神戸の人ですが、沖縄やら東京やら、けっこう色んなところに住んで、今は半ば不本意ながら地元に帰って来て働いているという経歴の持ち主なので、わたしが関西に固執する理由が、今ひとつ分からない様子でした。
いや、敵意なんてものはないんだけどね…。だって関東の友人も多いのだし、本当に嫌いだったらそもそも就職を考えないと思うし。


でも、自分が”関西人”であるということに、妙なこだわりはあるんでしょうね、間違いなく。決してプライドではないんですが…。
旅に出ているときは、”敬語で関西弁をしゃべるのが難しい”というヘンな理由でもっぱら標準語をしゃべっていたけれど、本当は、どこでも関西弁・関西キャラで通せる人がうらやましかった。
何だろうな、自分の中にある関西ノリとか空気感ってものを、大事にしたい気持ちが強いのです。よくも悪くも中途半端な、都会なんだけどギラギラした感じの少ない(ネオンはギラギラですけど)、どっか間の抜けた土地柄、そこで育った、もひとつ伸びきれないゆるさとかを(笑)。


旅であれだけ色んな国を周っていたのに?…と、不思議に思う人もいるかも知れません。
大体、ひとつの土地、それも自分の生まれた場所への執着なんて、旅人らしくないというか、ある意味泥臭い感情だと思うのですが、でも、この想いは、色んな国を周ったからこそじゃないかなという気もします。
わたしは多分、東京でもどこででも、生きていけると思う。どの国でも、どの町でも、それなりにやっていけるし、好きになれる。事実そうやって、旅を続けて来たのですから。
その感覚は失いたくないけれど、それと同時に、何か自分の基盤になるような場所も(心の中のことにせよ)持っていたいなと思うのです。


こないだ、高知出身の友人の彼が、「こいつ(友人のこと)、田舎トークで負けたことないからねー」と云っていたのが印象的でした。
あ、何かいいなそれ、って思ったの。確かに、彼女の田舎レベルは凄まじいものがあり、これってもはや立派なネタだよなーって、ちょっとカッコよくすら見えたりして(笑)。


ちなみに、先述の神戸の友人には、「”大阪”じゃなくて、”関西”なの?」と聞かれたのですが、そうなんです。京都・神戸あたりも含めたいわゆる”関西圏”への愛なのです。わたしは、京都も神戸も、奈良辺りも含めて好きで、それなりに馴染みもあるので、やっぱりそこは、大阪だけに留まりません。
さらに云うと、地元N市は何の変哲もないただのベッドタウンで、それほど昔の友達が残っているわけでもなし、大して愛着もなかったのですが、ここに来て急に、近所の商店街のよさなんかを発見しまったりして…ううむ、これも内定ブルーと最後マジックの為せる業かなあ。。。


osakajo ベタに大阪城とか行っちゃった(笑)。