大阪人にはわりと珍しいのかも知れませんが、わたしは高校生くらいから、東京に憧れを持っていました。
大阪の繁華街が、キタ(梅田)とミナミ(心斎橋・難波)、あとはせいぜい天王寺、京橋くらいしかないのに対して、東京には、新宿があり、渋谷があり、池袋があり、銀座があり、原宿があり…大阪とはとても比べ物になりません。
すごいなあ、東京って。今でもそう思います。世界を旅したあとでも、いや、だからこそ、東京以上の大都会はそうそうあるものではないと。


その一方で、わたしは大阪、というか関西を愛している…ような気がします。
自分の手(足か?)に収まるくらいの適度な大きさ。大阪・京都・神戸という、カラーの違ういわゆる”三都”に+奈良が隣接していて、行楽には事欠きません。
まあ、そういう客観的な面もそうですが、やはり何と云っても、20数年も暮らしてきた土地です。わたしの住むN市というのは、面白みのない住宅地なので、さして思い入れもないのですが、大阪・関西という括りではやはり、郷土愛?のようなものを感じます。


こないだ、東京から帰ってきて、JR大阪駅のホームに立って電車を待っていたとき、「ああ、帰ってきたなあ」という思いでいっぱいになり、妙にほっとしている自分がいました。帰国したときは、そんなこと、ぜんぜん思わなかったのに、不思議なものです。


東京への憧れ、関西への愛着。
仕事か家族かということ以外に、そこのところでも天秤が揺れています。
また悪いことに、最近つとに、関西への執着が湧いてきているようで…。
先日も、ついふらりと京都まで出かけて行って、「ああ、こんなに気軽に京都に行けてしまう今の家を捨ててまで、わたしは東京に行くの?」と自問自答しながら祇園周辺をお散歩していました。
わたしは、旅に出る前、京都がものすごく好きだったのです。子供の頃は寺マニアだったので、家族にせがんでよく連れて行ってもらいましたし、大人になってからは、タウン誌の京都特集が出るたびに買っては、新しい場所を発掘してはしょっちゅう出かけたものでした(帰国して本棚を見たら、京都関係の雑誌が多いのにびびった)。一時は、京都の大学に行かなかったことを、激しく後悔していたことすらあります。


しかしそれは、東京という新しい場所で一人で暮らしていくことへの不安、そこから逃げる気持ちが、執着に変化しているだけのようにも思います。
何でもそうじゃないですか。終わりに近づくと、もったいない気分になる。今自分を取り巻くすべてが、何だか美しく素晴らしいものに思えてくる。今の執着は、多分その作用なのでしょう。


旅ではあれほど遠くまで、何のためらいもなく行けていたのに、何を今さら郷土愛なんでしょうか。
旅の間、「ホームシックにならない?」と、100回以上聞かれたけれど、一度も「YES」と答えたことはなかった(それもどうかと思うが)。
今回の東京行きだって、いる間は家のことなんかほとんど考えなかった。帰る日も決めていなくて、2日前くらいにやっと父ちゃんにメールしたくらいです。


だから、これは一時的なものかも知れません。
何だって、新しい環境に飛び込むまでが一番精神力を要するのであって、いったんやってしまえば、何とか泳ぎきるものだと思います。
多分、東京に行ってしまえば、今のこの感傷的な気持ちはケロリと忘れて、新しい生活に夢中になるような気はします。


話は変わりますが、こないだ、「Eye-26歳、僕は世界へ飛び出した」 という旅の本をを出版したばかりの旅友・よっしーに会いました。
帰国してから知ったのだけれど、彼は現在、わたしの住むN市に一人暮らししているのです。隣のH市出身なのは知っていて、近いね~なんて云っていたのが、ホンマに近いやんっ!何せ、チャリンコで10分くらいの場所なのです。そんな近所に住んでいる旅友なんて、そうそういるもんじゃない。まして、この関西の一地方都市に…。


N駅前の「和民」で会って、最初は出版おめでとう~よかったね~なんて話していたのですが、いつの間にか話はわたしの進退問題(?)になり、「あ~東京か大阪か、どうしたらエエんやろう…」と、多分30回以上繰り返して、よっしーを困らせてしまいました。

相手をするのが疲れたのか、よっしーは、「分かった。じゃあ割り箸をサイコロにして決めよう!」と人の人生を安易に決めてくれました(笑)。


まあサイコロは冗談としても、人生の岐路(というのも大げさだけど)に立って、どの道を行くかを「とりあえず」で決めて行動できるなら、誰も苦労はしないよねえ。
でも、悩んでいるばっかりでも、仕方ないんだよねえ。