再読、ということになる朝吹真理子「きことわ」ですが、だいぶ忘れてしまっていたのか意外に新鮮なまま読めました。というよりも、ファンなだけなのですっと言葉の連なりが身に入るだけなのでしょうが。最後の感想になる候補作巡りも、単に贔屓に終わる可能性大です。

時間と記憶はどこまでも不確かなもので、捉えきれない事象を語ろうとすればするほど、言葉は語りえない。朝吹氏の作品はこの連続/非連続の間隙、虚と実のあわいを流れている。
前作「流跡」にあった漠とした捉えどころないイメージはすぐには感じられない。二人の女性を配したせいもあってか人物が前景化し、その二人の周囲には様々な対象が無数に散らばっている。そのことが幾多の具象によって鮮明に浮き上がってくる。だが、対象のひとつひとつには名がある、という自明性は再認されずに、言葉という記号から自ずと投影されるイメージがさらに次のイメージへと流れてゆくようで、身をゆだねている読み手の足場はとても危うい。前景化されたその背後に未明の事象がまた別の系でながれてゆくようである。
ところで、この作品はロブグリエの小説にどこか似ている。前衛的な手法が、というよりも時間の観念そのものが定まらないところだろうか。前作の掌編「家路」でみせた反復は鳴りを潜めたものの、この作品にはイメージの反復ともいうべき作用を感じた。繰り返される夢や過去の挿話がシームレスに現実を侵食する。髪がからげる記憶も小道での長唄の記憶も、別荘という変わらない定点が人の手によって動き出すとき、次第に現実に作用してゆく。突然後ろ髪を引かれたり、死んだ母親が何人も現れたり。だが、実際にそんなことは起きていない。どこかに消えた時間と思い出がそのように見せているだけなのかもしれない。三分待っていたつもりがいつの間にか百年経っていた、と記述されるように時間はどこかへと消えてゆく。
小説の途中、突如「およそ350,000,000ねんまえ」という横書きの記述が現れる。これはもしかすると時間という概念の具象化を顕したかったのかもしれない。だが、いくら記してもその距離は描きようにないほど遥か遠い過去の時間で、どんなに想像力を膨らませてみても漠としていて届きそうにはなく、描けば描くほど、ついには、かそけき言葉たちだけが取り残される。そして、その言葉たちも簡単に忘れられてゆくのかもしれなかった。あたかも、思い出の詰まった別荘が取り壊され、その場所には何があったか誰も覚えていないかのように。
前衛小説としては傑作ではないだろうか。私にとって良い小説とは読者の類推を許容する小説で、この作品を読んでいると私は自然、絵画を想起してしまう。こういったコンセプチュアルな小説は必然的に絵画に近接してくるのだ。吉行淳之介はクレーの絵画から一つの小説を創りだし、野間宏はブリューゲルの絵画から一つの小説を創りだした。その逆もまた然りで、小説から一つの絵画を創りだしてゆくこともあるだろう。そういえば、ロブグリエの小説も非常に絵画的だと、ふと思った。

最近、批評の本など読むようになって真似ごとではじめた今回の試みですが、所詮は知識がないせいで書いてる本人が何言ってるかよくわからないものになってしまいました。批評家の方々はよくあれほど難しいことを整然とかけるもんだと、畏敬の念を抱かざるを得ません。無論、作家の方々にも畏敬の念を抱いていますが、正直なところどれが賞をとってもおかしくないほど素晴らしい作品ばかりでした。まあ、でも私としては芥川賞には朝吹真理子を推します。ファンなので。

昨夜、図書館から借りてきた候補作を読んでいたのですが、候補作に私小説が二作もあるとは想定外といえばそうですけども、なんだか時代の気分は回帰的なんではないかとの印象も最近はあって。反復することは必ずしも後退を意味するとは思えないというか、次に移行する伸縮の過程、力学的に言えば圧縮ともいえる段階なんていうこともあるのではないのかあ、と思ってみたものの抽象的すぎて自分でも何言ってるのかよくわかりません。そういえば、Twitterとかはじめてみたんですが、眺めてるだけであっという間に時間が過ぎてしまいます。なんかすごいな、と。断片的な他人の言葉を追っているうちに時間が過ぎてしまうのは、たしかに小説に似ているのかもしれません。

「母子寮前」は文學界9月号の掲載された作品。小谷野氏の小説もはじめて読むのだが、実は評論家だとおもっていた。
どうしても先に読んだ西村氏の作品と比較してしまわざるを得ないのは、私小説という括りになってしまうからだが、こちらの作品のほうがスキャンダラスといえるだろう。「苦役列車」には自身を俯瞰視しているところがあるが、この作品は日付が明記されていたり、断片的な回想が埋め込まれえいることもあってより主観的に映る。その赤裸々な内実を吐露してゆく姿勢がこの作品のカタルシスとして大きく影響しているように思う。
母親の死を通して描かれたのは、実は対立項として用意された父親の糾弾だったのではないかと勘ぐってしまうほど、その両親への態度には落差が大きい。もちろん、この作品に描かれているような父親となれば、作品内で悪しざまに扱いたくなる気持ちも斟酌できないわけではないし、私個人を照らし合わせても不在化した父親像を抱えたまま成長しているので、共感できる部分もあるにはあるのだが、あまりにも主観が強い印象をどうしても受けてしまう。
母親への依り方はセンチメンタルといえそうだが、自身の自虐的なまでにスキャンダラスな描写もあってか、差分としてそれほど嫌味になっていないように思えた。ただ、その描写はやはり主観的で、低く見積もられた父親の位置から相対的に高いポジションを得たままラストに母親の死を迎えてしまう。死後、「モノ」と化したとなれば、小谷野氏にとって母親の精神は永続的に高いポジションを確保したままだろう。
これがフィクションであったなら鼻白む場面もあったが、私小説、という機構が大きく作用したように思う。だが、正直に告白するなら文体自体が私にはあまり好みではなく、時々入る回想も時間が前後してリーダビリティを損なわせているように思った。他の作品も読んでみようか、とは今のところ思えていない。
芥川賞、というと、現代文学最前線にして前衛的手法の純文学、という偏頗なイメージを抱いてもいたのですが、候補作を読み続けるうち、おや、意外とそうでもないのだな、と認識が改まりつつあります。もっと奇を衒うような小説だったり、バイオレンス度高めの倫理観を問うような小説だったりが主流なんだと、勝手に思っていましたが。たまたま今回がオーソドックスな小説中心だったのでしょうか。案外、昨年末に話題になった東京都の案件が影響していたりして、と邪推したりもしています。

読み終えたのは昨日だが、田中慎弥「第3紀層の魚」について。読後、拍子抜けしてしまった、という感触が否めないのは、どこも引っかかる部分がなかった、ということになるのだろうか。穂田川氏の作品を古典的、などと嘯いた私ではあるが、とすればこの作品は近代文学の自然主義そのものではないだろうか、と感じたのだ。
果たして、良いのか悪いのか、その基準は好みになってしまうのかもしれないが、著者とこの作品には一定の距離がある。私はそれを、踏み込まない態度だ、と感じた。思春期前の少年が抱えるその機微を丁寧に掬ってはいると思うし、曾祖父の死から葬儀までの流れが抑制されて描かれるところなどは、ノスタルジックだが甘くなく、とても穏やかだ。
だが、それだけだ、という印象も拭えない。もちろん、100歳近く生きた曾祖父の来歴を切々と書かれても、それはそれで辟易したろうから、この場合は良かったのかもしれないが、祖母にしても、母にしても、書き割り的なイメージしか持てなかった。いや、もっといえば主人公含めた全ての造形が遠いように感じたのだ。だから、読んでいる間中、一般論で語られる2時間ドラマでも観ているような気分だった。少年が曾祖父の死や、母の転勤の意味付けの中で揺れる態度は理解できなくはない。が、しかし…。
この作品が候補となるからには、もちろん相当の理由があるのだろうが、「今ここ」を言及する現代文学かと訊かれたなら、私ならかぶりを振ってしまうだろう。

ただ、個人的な思い出と関連づけるなら、入院中の桃の匂いや、葬儀の場面などは幼いころの記憶が甦ったりもした。