PHP文庫のタイトル風に(笑)
最近twitter上で俺が出しているテーマ、俺自身の流行語である「多様性」「美徳(美学)」「言葉は所詮言葉」「誤解、理解」

これについて考える。

■多様性
大学に入ってから様々な人に会って来た。同じ大学の人、会社員、アーティストからホームレスまでいる。自分の趣向に合う合わない関係なく結果として会い話した。それが初め物凄く“不快”だった。自分が想定していない人達だったかだ。

意味の分からない世界観と感性に度肝を抜かれた。そこで自分の世界観の狭さに愕然とした。でもそれは世界に対して無知であったという事もあるが世界の歩き方、楽しみ方を知らなかったという事なんだと思う。

自分がおかしいとか気持ち悪いとか変だとか何の為にやっているの?と思う行動をとっている人は世の中には沢山いる。でもその人物がやっている以上、それはその行動を肯定する理屈が存在しているんだよね。

そう思うと、な~んだ単に自分が楽しみ方を知らないだけじゃん。その肯定する理屈が高度過ぎて俺には理解できないだけで、そんな高度な楽しみ方できるなんてイイネ!と思うのだ。そう見るとどんな変なやつも、なんと高度な価値観をお持ちで!と感心してしまうのだ。だから俺は求める!より高度な価値観を!人間って楽しいなぁ~。大学1年生の3月時思った事である。

■多様性の極論
それからは楽しかった。日常のありとあらゆるものがエンターテイメント化してきた。あれもこれも面白い。苦手な人と話すのも楽しいし、訳のわからん格好している人を見て、世間がなんだありゃ?って顔してても

俺なんかは、すげーなおい!常人が出来ない事を平然とやっている。どんなに罵倒されようが周りをあそこまで注目させたならあんたは勝ちよ!と電車内でエールを送っていた。多様性を認めるとあらゆるものに寛容になってくる。

しかし、それは恐ろしい事なんでは無いか?と最近になって思う。多様性が強まり過ぎると何が正しくて何が正しくないか?何が良くて何が悪いのかという感覚が薄れてくる。度も過ぎると主観が喪失してしまう。

客観的思考、勿論重要だが、悪い意味で人の悩み事相談に乗れなくなる。深刻な悩みも俯瞰的に見てしまう。例えば小学生の男の子は、学校でうんちをする事が出来ない。周りに罵られそれが恥ずかしいからだ。

今思えば、大した事じゃないし、ナイーブだなおい!と笑い話にできるが、当事者の小学生からすれば深刻な悩みなのだ。悩みは主観的に見てないと本当に悩みを感じる事が出来ない。両親が殺されたとか借金1億ありますとか・・

じゃない限り客観性を極端にしてしまえば、人間の悩みなんて小学生のうんち問題程度になってしまう。だから怖い、全てを認めてしまうという心境が・・・
多様性も極論に持ってくと恐ろしい。それは基準喪失だから。

■言葉は所詮言葉(されど言葉)
最近言葉は所詮言葉だなと思う。twitterやmixi等のSNSの台頭で人は、色々な情報を双方向に発信する様になった。発信の内容も様々で、利用用途も多種多様だ。だが、言葉(文章)の恐ろしい所はここにある。

俺の呟きや他の人の呟きもそうだが、文章は文章である故に誤解を生みやすい。特に、二元論的に解釈がなされてしまうことが多いのだ。例えば前述した以下の文章を見てみる。

①“だから怖い、全てを認めてしまうという心境が・・・
多様性も極論に持ってくと恐ろしい。それは基準喪失だから。”
②“悩みは主観的に見てないと本当に悩みを感じる事が出来ない。両親が殺されたとか借金1億ありますとか・・”

こういう文章を書くと、全てを認めてしまうわけないだろ!とか言うリプライがとんでくる。日本語的に全ては全てだが、本当に全てを認められる状況なんてある訳はないし、俺がいいたのは沢山の事を許容する様な状況を指す。

②の方を見ても、お前は両親が殺されたとか1億円レベルの借金しなきゃ人の痛みを感じれないのか?とか言ってくる人もいる。それに対して、そんな訳ないでしょう。極論に迄もっていくとこういう心境になる可能性もありますよね?というニュアンスを伝えたい。

とにかく言葉は、表現者と受けての関係や心理状況、他色々な要因でいくらでも解釈されてしまうのだ。上の例の様に指摘が来てそれに返信できる状況ならいいが、勝手に言葉だけで人を判断するのは実に危険な行為だと思う。

それは日常生活にも言える。すぐに人に死ねとか、馬鹿とか言っている人がいるからってそいつが腐ってるとは限らない。そう言うやつに限って人思いだったりする。“偽悪的”なんて言葉はそうなんだろう。逆に良い事言ってるからって良いとも限らないし、一回会って話して、おかしな事を言ったからおかしい人でもない。

人間の善し悪しは、様々な状況、雰囲気全てを加味しなければ分からないのだ。だから言葉だけを見るのは危ない事。だけどだからといって言葉の力は0%って訳でもないんだけどね。言葉は所詮言葉、されど言葉ってそう言う意味。

■誤解、理解
上記の言葉は所詮言葉の話しに起因するけど、言葉を正しく理解する事も良いけれども、誤解の良さを案外我々は気づいていない。人の言う事の真意を理解する事は誰でもその意義分かるし、基本そうするべきだと思う。

だけど誤解によって生み出される素晴らしいことがある。

○とある指導者Aが言いました「情けは人の為にならずじゃ、諸君肝に銘じるのじゃぞ」

○それに対して村民Bは思いました「情けは人の為にならない、私は最近子供を甘やかしている。子供の為子供の為と思ってやってあげるのは将来的に見て子供の為にならないわ。そうよ!子供は厳しくしなきゃ!」

子供を甘く育てていると思いつつアクションを起こしていなかったBさん。Bさんはどこかで葛藤を抱えていました。そんな時指導者の「情けは人の為にならず」という言葉を聞いた事により厳しく育てる事に成功したのです。

ここでBさんは1つの誤解をしました。それは、「情けは人の為ならず」という言葉は人を甘やかす事はその人の為にならないということを言っている訳ではないのです。本当の指導者Aが言いたかった事は、情けは人(他人)の為にやることではないのですよ。そのかけた情けがいずれ自分の所に帰ってくるのです。だから人に親切にしなさいと言いたかったのです。

つまりBさんは誤解したのです。でも結果はどうでしょうか?結果的にBさんはうまく行きました。人の言葉を誤解し、しかし誤解したが為にあらたな通念が生まれた瞬間とは言えないでしょうか?この様に誤解から新たなものが生まれそれが

大きな利益、利得を与えてくれる場合もあるのだと、誤解も時には馬鹿に出来ないということです。だからどんどん誤解、拡大解釈をしてもらって、逆に俺に教えてもらいたい!最近は誤解が楽しくて仕方ないんです。

無理矢理言えば発想の転換?の一部かな?

■美徳(美学)
人間の思考の根幹って何だろう?行動、振る舞いの根幹って何だろう?そう考えた時に、全ては美学なんだなと最近思う。これは半年以上前から思っている事でその時も、“人間は美学の奴隷だ”みたいな事を言ったのを覚えている。

そんなたいそれた行動じゃなくてもそれには美学が関係してくる。カップラーメンを3分じゃなく2分で食べて固めで食べる事もそのほうがいい優れている、かっこういい食べ方だと潜在的に思っている事であってそれは美学である。

男は年頃になると「最近調子どう?」「まぁぼちぼちかな」「ゆたかは?」「あいつと最近連絡とってねな」みたいな気取り口調(音声的な意味で)になってくる。本人達は無意識だが、潜在的な部分に格好いい口調でありたいという思うが隠れているしやはりそれも美意識だと思う。

911でビルに突入したテロ組織だって、それは彼らなりの正義の執行であるし、正義の鉄槌を自分の命を犠牲にして降すものといった自己犠牲の美学や正義の美学にかられていたのかもしれない。

文章だってそうだ。俺みたいに堅苦しい文章書いてるやつは堅苦しい文章を書く事に美しさを感じているんだ。体壊してまで酒飲むのも全部美学だ。普通の人が自重をするところを敢えて自重しない、これもまた美学だ。

mixiやっているのもtwitterやっているのも、心臓動かすの息するのとか以外みんな美学なんだなと思うと、この広き世界はだから美しいんだ(面白い)なと再認識させられる。そりゃそのはずだよ。皆の美しい形が集約した世界なんだから。
このブログは、僕が普段から思っていることや、世の中の時事に対して思ったことなど・・・
結構堅苦しいことをただひたすら書こうと思う・・・

そういったブログです。主に内容は、政治、経済が主体の予定で、あとは社会問題とか環境問題、文化問題にも余裕があれば触れていきたいと思っています。どうしてもmixi上では、堅苦しい話題は重くなりすぎてしまうので専用の場所を設けさせていただきました。

就職活動が開始し、なかなか忙しい日々が続いているので、頻繁な更新はできないと思いますが、お暇な時や、ヤスはいったいどういう価値観を持ってて、どういうものの考え方をするんだ?とか、政治や経済とか、人間社会における事物に興味ある方はたまに覗いてみてください。

そして、僕のブログに対して、俺は、私は、○○な見解を持っているというかたがいらっしゃいましたら、ぜひコメントで教えてください。skypeからでも構いません。それが皆様、もしくは僕自身の価値観共有や視野拡大につながっていけばそれは僕にとっての幸せなことですから。

では、よろしくお願いします。

2010年3月6日