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鳳凰山の備忘録

趣味関係の備忘録・・・・・・

 出雲・松江藩の藩札は大黒様や恵比須様、布袋様や毘沙門様といった神仏に加え、麒麟や獅子、孔雀や十二支等が札面を彩り、そのセンスのよいデザイン性に個人的にも大いに魅力を感じ、ご縁があるものを一枚ずつ揃えていくのがとても楽しみなところでもありました。

 もっとも、松江藩の藩札自体は当地の方には誠に失礼ながら全国的にはさほど知名度のあるものでもないと感ずるわけですが、初期の札と考えられているものには入手の難しいものが多々あり、「両町印札」はまだしも、「平田屋札」はただの一枚を手にするだけでもかなりの時間が掛かったものです(いまだに平田屋札の「銀壱ふん」は未入手・・・・・・)。

 また、松江藩札といえば古札収集を志す方には周知のことでもありますが、延寶6年の城下の大火により、それまでの資料がことごとく焼失してしまったようで、最初期の札(延寶三年札)が一体どのような体裁のものだったのか全く伝わっておらず(額面すら)、古くから当地の先輩方によってもいろいろと見解の相違のあるものでした。

 記録との照合ができなくなっている以上、できることといえば目の前の限られた実物から推測していくより他ないわけですが、いつか自分なりに納得のいく答え(落としどころ)が導き出せたら!、と願ってはいるものの、当地に縁もゆかりもない余所者? がそのような大それたことを考えてもよいのか?、しかしそれ言い出したら、日本人が外国コインの研究をすることに意味があるのか?、などと飛び火することにもなりそうで、その手の話はここまでと致しましょう。

 

 それでは、松江藩札の最初期(延寶)札に関するこれまでの代表的な見解を時代順に簡単に挙げてみます。

 

①『貨幣(旧貨幣)』(昭和16年6月)

 どうやら、戦前においては「平田屋札」(銀五匁~銀壱ふんの5種)が最初期のものと考えられていたようです(ただし、「延寶二年に発行せし・・・・・・」との記載)。

 

②『藩札図録(ボナンザ連載版)』(昭和50年7月)

 こちらは現在では「三次藩の元禄札」と判明しているものを最初期のものとして挙げていますが、さすがに今日ではこれは除外してもよいと思います。

 なお、備後・三次藩は安芸・廣嶋藩の支藩でしたが、4代・5代藩主が相次いで夭逝したため享保5年に廃藩となっています。

 余談ながら、「忠臣蔵」で知られる赤穂藩の3代藩主・浅野長矩(内匠頭)の正妻・阿久里(瑤泉院)は、三次藩の初代藩主・浅野長治の三女にあたります。

 

③『山陰古札図録』(昭和51年5月)

④『出雲・隠岐両国古札図録』(平成26年1月)

 これらの二書ではともに「両町」印の押された「大字札座札」(銀参ふん・銀弐ふんの2種)を最初期のものとしています。

 

 このように、近年では①もしくは③④の両説が最初期(延寶)札の見解となっていたようですが、どちらの説にも少なからず腑に落ちないところがあることは両説を唱える方々それぞれの胸中にもあったのではないでしょうか(私自身は複数の先輩方と意見交換をさせていただいた上で、①の「平田屋札」を最初期札とするのが妥当と感じていました)・・・・・・

 

 

●延寶三(1675)年札

 ・灰吹壱匁 (裏面・平田屋)

 ・灰吹参ふん(裏面・平田屋)

 ・灰吹弐ふん(裏面・平田屋)

 

 さて、この度ご縁のあったものは、最初期札の候補としても挙げられている「平田屋札」ではあるのですが、額面に「灰吹」という、これまでの藩札類では目にしたことのない表記がなされたもので、その体裁も松江藩の他の札種と同じような雰囲気を持ちながら幾分素朴さを感じさせる(先行札と予想される)ものでした。

 

 当地には多数の鉱山が存在し、世界でも有数の銀の産地です。

 

 銀は灰吹法により精錬されることから「灰吹銀」とも呼ばれるように、この場合の「灰吹」についても「銀」を表す言葉と捉えるのが自然のように感じます。

 都合よく、「灰吹壱匁」・「灰吹参ふん」・「灰吹弐ふん」の3種の額面が出現したのですが、このうちの壱匁札の表面下段には分銅型の「延寶」印が押されており、このタイプこそ今まで知られていなかった松江藩の真なる最初期札だったのでは!、との思いを強くしたのです。

 ちなみに、小額札にはそれ(「延寶」印)がなく、代わりに裏面に長方型の「國寶」印の押されているのが特徴で、仮にこの「灰吹札」が小額札のみの発見であったなら、「最初期(延寶)札の可能性のあるものが、新たに一種増えた」とまでしか言えなかったかもしれません。

 

 今回、幸いにも壱匁札に「延寶」印のあることが確認でき、この「平田屋・灰吹札」を松江藩の延寶3年の最初期札としてご紹介させていただけることをうれしく思うわけですが、実のところ一つの懸念があるのです。

 というのも、この分銅型の「延寶」印については、後出札と思われる「平田屋・銀札」や「新屋(あたらしや)札」(こちらはより後年の札と思われる)の「銀壱ふん」の裏面にも押されている(平田屋札の「銀壱ふん」は日本銀行貨幣博物館が所蔵)ことが以前より知られており、これをどう解釈したらよいのか(後年の発行なれども初出時を尊重? しての押印なのか、それともこれらも全て延寶期の発行だったのか?)、誠に頭の痛い問題で、今後の研究課題とするしかありません(個人的に「新屋札」については、その現存数から「幕府より藩札再発行の認可を受けた享保15年以降のもの」と考えており、それゆえ自分には「新屋札」への「延寶」印の押印の意図が理解できないでいるのです・・・・・・)。

 

 加えて、これまで最初期札の候補に挙げられていた、もう一つの「両町印札」についても一体どこに配置すればよいのか新たな問題が噴出し、さらなる頭痛を引き起こしかねないわけですが、ひとまずは心を落ち着かせ、ちょうど350年前のこれまでその一切が不明となっていた松江藩の「延寶三年札」の出現を言祝ぎ、今後も皆様とともに一つ一つの積み重ねで歴史のピースを埋めていけたら・・・・・・、と願っております。

 

 

こちらは「日本古札協会」の令和6年10月例会での発表原稿(『古札研究』第127号掲載)に一部手を加えたものとなります。