これは、今朝揉めた話を私なりの解釈で書いてる。

 

確かに、人に嫌な事をしなければ、

嫌な事はされない。

これはある意味、精神的な絶対防御だろう。

 

ただ、これには一つ問題点がある。

プラスにならないのだ。

端的に言えば数字に1の掛け算をしているのと同じだ。

 

幸福の科学でエル・カンターレの前身、エル・ミオーレは、

これを腐るほど見ている。

 

だから、金星での文明をあきらめ、

地球においてプラスの文明を創ろうと考えた。

そして、我々人間が生まれた。

エル・カンターレは前回の反省点から、

人間の進化を強くした。逆に劣等点も作った。

 

これを言い換えるなら、

数字に動静を持たせ、進化も堕落も与える、

という意味にした、という事だ。

 

なので、嫌な事を相手にしない、

というのは防御論だが攻めではない。

時には相手の嫌な点や問題点を叩かなければいけない時があるのだ。

 

子供の時の躾なんかが代表例だろう。

どうしても、親は愛している子供を叩きたくないが、

その子が未来にはばたくために、あえて鬼となる瞬間がある。

最近は叩かない育児法とかが優先されているが、

あれはクソだ。

 

子供はダメな事はダメ、と瞬間的でも叱らなければ、

気付かない時がある。それをしない子供は、

いずれ、バカッターなどの様な問題行動だって起こし、

全てを無にしてしまう事だってあるのだ。

 

普通の社会においてもこれは同じだ。

愛を与え続けているだけでは、

人は進歩しない。

あえて叱る瞬間も存在する。

それがいわゆる反省だ。

大人は自分自身を叱らなければ、絶対に成長できない。

 

護るだけが人生じゃないんだ。

攻め続けること、反省する事、知る事、成長する事も、

人生の要素として与えられているのだ。

 

この事を忘れてはいけない。

なぜPDCA理論や四正道が人の成長の為の方法として扱われるか、

知るべきなのである。

 

プラスの成長の為には、

嫌な事をする必要が絶対に存在するのだ。