2-27 タフな働き者

    DC-3型 旅客機 (零式輸送機)

 ダグラスDC3型(註1)、この原型は1型から2型へとその伝統的なキャラクターを受けついで、一九三五年十二月十五日、サンタモニカの空に浮いた。

 四0年には輸出を含めて五00機からの生産量を挙げたといわれる。大戦中は中国向けの物資補給をビルマ・インドのルートを通じて行ったハンプ作戦に強力な輸送力を示した。昭和飛行機ではこの製造権を昭和十四年にダグラス社より獲得して国産化をはかった。三菱のエンジンを付けたのが一一型零式輸送機(註2)と称して海軍で使われた。(抜粋)

 

 註1) ダグラスDC3型

 ダグラス DC-3

 アメリカ、ダグラス・エアクラフト社(現 ボーイング社)が開発した全金属製、低翼単葉双発旅客、輸送機。初飛行は1935年、旅客機として就航開始したのは1936年。

 ダグラス社は1933年、ユナイテッド航空のボーイング247の対抗機としてTWA(トランスワールド航空)の要求を受けて、12座席の試作旅客機 DC-1 1機を製作した。

 TWAとダグラス社はこのDC-1の飛行テストを重ね、エンジンを強化、機体を延長、14座席の機体を1934年に完成させた。TWAはこの機体20機をダグラス社に発注した。この量産型が DC-2、DC-2 は156機が生産された。

 北米大陸横断航空路に寝台旅客機を持つアメリカン航空がこのDC-2に注目、昼は客席、夜は14名分の寝台(二段ベット)になるより大型の寝台旅客機をダグラス社に発注した。ダグラス社はDC-2をベースに Douglas Sleeper Transport 略して DST を1935年に完成させた。

 DSTの完成後すぐに寝台の代わりに21座席の通常座席型が開発された。これが DC-3。DST、DC-3、共に1936年に就航した。

 DSTとDC-3は当初はアメリカン航空が独占していたが、その後 TWA、イースタン航空という主要航空会社がこぞって採用、アメリカの民間航空業界を席巻、ベストセラー旅客機となった。ダグラス社は DSTとDC-3を1939年までに430機を生産した。

 第二次世界大戦参戦で米国政府は航空会社発注済みの DC-3、114機すべて、アメリカ陸軍航空隊に回し、既存のDC-3も民間航空会社から徴用して軍用に用いた。1941年にはDC-3の輸送機型を正式に軍用輸送機として採用、制式名称を C-47 とした。この軍用DC-3はD・C・Three を略して地名をかけて「ダコタ」と呼ばれていた。

 派生型

 DC-3:旅客輸送機の基本型 ライト・サイクロン エンジンを搭載

 DC-3A:エンジンを P&Wツインワプスに換装

 1945年末までにDC-3は11,000機以上が生産された。アイゼンハワーは第二次世界大戦の連合国勝利に著しく寄与したのは「バズーカ砲、ジープ、そしてダコタ」と述べている。アメリカ以外にソビエト連邦と日本でもライセンス生産が行われた。

 ソ連のDC-3

 ソ連ではアメリカから供与されたC-47、700機をもとに、ソ連製エンジンを搭載した輸送機PS-84 を開発。この機体は、1942年以降 Li-2 の名称で軍用輸送機として量産され対ドイツ戦で用いられた。1945年までに2,000機が生産された。大戦後はソ連のアエロフロート航空および東側諸国で旅客機、輸送機として活用された。

 日本のDC-3

 日本では海軍が三井物産にDC-3の製造ライセンスを取得させ設立間もない昭和飛行機(昭和12年設立)で5機分のノックダウンを行わせた。その後昭和飛行機で国産化、改良が進められ、エンジンを三菱の金星に変更し、海軍から零式輸送機(L2D2)として昭和15年(1940年)に制式採用された。昭和20年(1945年)までに昭和飛行機で430機、中島飛行機で70機、総計500機が生産された。

 

 ダグラス DC-3 諸元

 エンジン: ライト・サイクロン 空冷複列星型14気筒 840hp x2

        P&W ツインワプス 空冷複列星型14気筒 1,000hp x2

 乗員:2名+乗客21席(3列) 28~32席(4列)

・全幅: 28.96m ・全長: 19.66m ・全高: 5.16m ・自重: 7,650kg ・全備重量: 11,430kg

・最高速度: 346km/h ・巡航速度:266km/h ・実用上昇限度: 7,100m

・航続距離(最大搭載時): 2,420km

 

 ダグラス・エアクラフト (ダグラス社)

 ドナルド・ウイルズ・ダグラスが1921年アメリカ、カルホルニアのサンタモニカに航空機製造会社。

 1923年 ダグラス DT(複葉複座単発雷撃機) アメリカ海軍から受注

 1924年 アメリカ海軍の世界一周企画用ダグラス・ワールド・クルーザー 「DWC」を製作

 1933年 全金属製、低翼単葉双発旅客機 12座席の「DC-1」 1機を試作

 1934年 「DC-1」をベースに14座席の「DC-2」を製作 DC-2はその後156機を生産

 1935年 「DC-2」をベースに14名分の寝台を備えた寝台旅客機「DST」を製作

 1936年 DSTの派生型として21座席の「DC-3」を製作

      1939年までに「DST」「DC-3」は600機を生産

 1941年~1945年 ・ダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機 ・A-20ハボック ・A-26インベータ

            ・C-47(DC-3) ・C-54(DC-4)等を生産

 1947年 「DC-6」を生産

 1953年 「DC-7」を生産 DC-7はダグラス社最後のレシプロ機

 1958年 「DC-8」を生産 ジェット旅客機時代となる

 1960年 「DC-9」を開発 DC-9のコスト高と売れすぎで回転資金不足の問題がおきる

       マクドネル社との合併を模索

 1967年 マクドネル社に吸収合併され マクドネル・ダグラス社となる

 1997年 マクドネル・ダグラス社もボーイング社に買収、吸収

       ザ・ボーイング・カンパニーが発足

 

 ドナルド・ウィルズ・ダグラス (1892年~1981年)

 アメリカの航空機製造会社 ダグラス・エアクラフト社の創立者

 1892年 ニューヨーク、ブルックリンに生まれる

      アナポリスの海軍兵学校に入学

      中退してマサチューセッツ工科大学(MIT)に入学

 1915年 コネチカット航空に入社、後 マーチン社に移る

 1920年 独立してカルフォルニアのサンタモニカに ダグラス社を設立

 1923年 アメリカ海軍からの航空機の受注に成功

 1924年 ダグラス DT ダグラス DWT を製作

 1933年 旅客機の製造に乗り出す ダグラス DC-1 を製作

 1934年 ダグラス DC-2 を製造、生産

 1935年 ダグラス DST ダグラス DC-3 を製造、生産

 1936年 ダグラス DC-3 ベストセラー旅客機となる

 1967年 ダグラス社はマクドネル社と合併 マクドネル・ダグラス社となる

 1981年 ドナルド・ダグラス 89才で没

 

 零式輸送機 (L2D)

 昭和飛行機が海軍向けに製作した全金属製、低翼単葉双発引込脚 輸送機

 昭和14年、昭和飛行機はアメリカ、ダグラス社よりDC-3の製造権を取得、ダグラス社からDC-3 5機分の機体部品を購入、この年から5機のノックダウン生産を行った。昭和16年5月にノックダウンの5機が完成、1、3、4号機は大日本航空輸送に納入、2、5号機は海軍に納入された。海軍では「D1号輸送機」(L2D1)と呼称して使用した。

 この5機のノックダウンと並行してエンジンを三菱金星四三型に換装、海軍の輸送機仕様とした機体の国産化が進められた。この機体は昭和16年7月に完成、「D2号輸送機」と呼称され、昭和16年12月「零式輸送機一一型」(L2D2)として制式採用され、生産初期の量産型となった。この一一型をベースに航空エンジン輸送用の貨物輸送機(L2D2L)が製作された。昭和17年にはエンジンを強化、三菱金星五一型に換装した機体、二二型(L2D3)が製造され後期の量産型となった。この二二型をベースに荷物輸送機(L2D3L)が製作された。その後、二二型をベースに防備用機銃2基を装備した機体、二二型甲(L2D3a)が製作された。

 

 零式輸送機 各型

・D1号輸送機(L2D1): ライト・サイクロン空冷複列星型14気筒840hp x2

              DC-3型、ノックダウン機 海軍向けは2機

・零式輸送機一一型(D2号輸送機)(L2D2):金星四三型空冷複列星型14気筒900hp x2

                            初期量産型

・零式貨物輸送機(L2D2L):L2D2 をベースに改造した貨物輸送機

                      L2D2 と L2D2L 合わせて 181機を生産

・零式輸送機二二型(L2D3):金星五一型空冷複列星型14気筒 1,200hp x2 

                   後期量産型

・零式荷物輸送機(L2D3L):L2D3 をベースに改造した荷物輸送機

・零式輸送機二二型甲(L2D3a):金星五一型空冷複列星型14気筒 1,200hp x2 

                     防御用機銃搭載型

・零式輸送機二三型(L2D4):金星六二型空冷複列星型14気筒 1,350hp x2

                   出力向上型

                  L2D3  L2D3L  L2D3a L2D4 合わせて 212機を生産

・零式輸送機二三型(L2D5):全木製型 強度試験用2機が完成 テスト未完

 

 昭和飛行機でのDC-3型機の生産は昭和15年度 3機 16年度 32機 17年度 63機 18年度 77機 19年度 170機 20年度8月まで 85機 計430機を生産。

 その内、零式輸送機として海軍向けに 393機、内訳は・標準型 181機 ・兵員荷物輸送機 137機 ・発動機、プロペラ専用貨物輸送機 75機となっている。その他、大日本航空輸送向けに標準型が 29機。 中華航空向けに標準型が 8機 がある。(中華航空(株):大日本航空輸送(株)の出資により昭和13年に設立され中国大陸の航空輸送に従事。この中華航空所有の上海號(DC-3型機)の昭和16年12月の不時着事故が「上海號不時着事件」となる)

 中島飛行機でも零式輸送機の生産が行われ、一一型(L2D2) 70機が生産され、DC-3型機は合計500機が生産された。

 昭和飛行機における零式輸送機の性能向上と一部木製化

 第150号機以降の零式輸送機は海軍の要請で性能向上のため外翼に燃料タンクを増設、エンジンを金星五三型または金星六三型に変更、航続距離の延長を図った。

 昭和18年度後半から部分木製化が進められ、機体の強度面での支障のない昇降舵、方向舵から始め、次いで水平尾翼、垂直尾翼、補助翼、入口扉に木製化が行われた。使用木材は榀、樺、杉、檜で用途に応じて合板加工をして使用した。終戦までに生産された木製化機体は30機に達していた。主翼、胴体など主要部分まで木製化する計画が立てられ、強度試験用2機分を完成したが試験を実施するまでには至らなかった。

 

 零式輸送機一一型(L2D2) 諸元

 エンジン: 三菱金星四三型 空冷複列星型14気筒 900hp x2

 乗員:5名+ 21座席

・全幅: 28.967m ・全長: 19.723m ・全高: 7.367m ・自重: 7,127kg ・全備重量: 10,900kg

・最大速度: 327km/h ・上昇限度: 6,880m ・航続距離:

 

 零式輸送機二二型(L2D3) 諸元

 エンジン: 三菱金星五一型 空冷複列星型14気筒 1,200hp x2

 乗員:5名+ 21座席

・全幅: 28.95m ・全長: 19.72m ・全高: 7.46m ・自重: 7,706kg ・全備重量: 12,500kg

・最大速度: 395km/h ・上昇限度: 7,280m ・航続距離: 3,310km~5,000km

 

 零式輸送機二二型甲(L2D3a) 諸元

 エンジン: 三菱金星五三型 空冷複列星型14気筒 1,300hp x2

 乗員:5名

・全幅: 28.964m ・全長: 19.705m ・全高: 7.400m ・自重: 7,540kg ・全備重量: 12,500kg

・最大速度: 393km/h ・巡航速度: 278km/h ・上昇限度: 7,280km

・航続距離: 3,270km

・武装:7.9mm旋回機銃x1

 

 昭和飛行機工業株式会社 (昭和12年6月~昭和20年8月)

 各種飛行機・発動機の製造、販売を目的として三井物産が主体となって昭和12年6月に設立。

 海軍はアメリカ、ダグラス社のDC-3型機に着目、主力輸送機に採用すべく、三井物産を通じて、昭和12年にDC-3型機の製造権を取得した。この製造権の取得は三井物産が取得、これを海軍が譲り受けるという形式をとり、昭和12年12月に三井物産が取得した。製造は昭和飛行機で行うことが決められた。

 昭和13年、昭和飛行機とダグラス社との製造に関する契約が交わされた。その合意事項は

1)ダグラス社はDC-3型機の図面、材料部品表、特殊工具、現図板、組立治具図を提供する

2)昭和飛行機は機体部品、半製品の5機分を買い入れる

3)昭和飛行機はゲーリングプロセス(板金部品量産用プレス工法)の使用権および同プレス1基を買い入れる

4)昭和飛行機は技術習得のためダグラス社に技術者を派遣する

5)昭和飛行機は生産管理、機体工作、プレス機の指導技術者3名をダグラス社から招聘する

 航空機製造工場として東京製作所を東京府北多摩郡昭和村(現 昭島市)に建設、昭和13年9月ダグラス社より技術者が着任し輸入DC-3型機 5機のノックダウンが開始された。昭和14年9月に第1号機が完成、昭和16年5月に第5号機が完成、輸入5機の組立を完了した。

 この間発動機部門では独自の発動機を開発、製造するため発動機製造用の工作機械の輸入を計ったが途中輸入困難の事態が発生、製造に必要な工作機械を揃えることが出来ず、昭和15年12月、発動機事業返上願いを提出、発動機製造を断念、事業を中止した。

 DC-3型機の国産化は輸入機ノックダウンと並行して行われ、零式輸送機として昭和16年8月の2機完成から昭和20年8月までに430機を生産した。

 DC-3型機の他、昭和18年海軍から 九九式艦上爆撃機の製造命令を受け、昭和19年度 160機 昭和20年8月までに 60機 合計 220機を生産した。また昭和19年末、紫電改戦闘機の製造命令を受け、昭和20年8月までに 2機を完成させた。

 その他、破損した九六式陸上攻撃機の改修を行い、昭和15年から昭和20年8月までに 153機を改修、又昭和18年と昭和20年に一式陸上攻撃機に同様な改修を行い25機を完成させた。 昭和20年8月15日、終戦と共に昭和飛行機は業務を停止した。

 

 昭和飛行機工業 (令和2年(2020年)1月現在)

 正式社名: 昭和飛行機工業株式会社

 輸送用機器製造業 昭和12年(1937年)設立

 本社: 東京都昭島市田中町 三井造船子会社

 収益の主力は不動産賃貸、ゴルフ場、スポーツ施設運営。タンクローリーなど特殊車輌や輸送用機器関連の製造事業を併設。東証2部上場。

 

 このタイトルから

 飛行船のことから、横須賀海軍工廠、航空廠、空技廠、昭和飛行機で航空エンジンに関わった ある海軍技師の軌跡を書いてみました。父のことです。タイトル 1-25)「大空の巨鯨 半硬式飛行船」「このタイトルから」の続きとなります。

 

 ある海軍技師の軌跡

 昭和28年(1953年)飛行船胴体に似た富士フィルムの大型フィルムベース乾燥ドラム(9メートルドラムと呼んでいました)製作のため東京 足立区小菅に社名 内外工業という会社を作ります。昭和30年(1955年)富士フィルム足柄工場に9メートルドラムの据付は完了します。父55才の時です。爾来、富士フィルムのフィルム製造部乾燥設備部門からの注文を受け乾燥設備用品に関わるステンレス製品の設計、製造、据付を専門に手掛ける乾燥設備用品製造業者となります。

 この間、富士フィルムではフィルムベースの乾燥方式は9メートルドラムに巻き付け乾燥させる接触式から直接フィルムベース乾燥空気を吹付け乾燥させる非接触方式に変わっていきます。昭和40年(1965年)にはフィルムベースの乾燥設備は非接触ダクト方式に置き換えられます。この間の事情を富士フィルムのホームページ「富士フィルムのあゆみ 生産技術開発」の中で次のように述べています。

「写真感光材料の製造工程では写真乳剤の製造工程や写真乳剤をフィルムベースなどの支持体に塗布する工程と並んで塗布済みフィルムベースやペーパーを乾燥する工程が工程の一つである。足柄工場では塗布のスピードアップに対応して品質のより一層の安定化のため乾燥工程についてもかねてから従来の方式から脱却する革新的な新方式の開発に力を注いできた。その結果、被乾燥面に垂直に乾燥風を吹き付けて乾燥時間の短縮と乾燥の均一化を図り、同時に乾燥設備のスペースを少なくて済む方式を完成、1965年(昭和40年)から製造設備に採り入れた。」

 富士フィルムベース製造部門では、この乾燥装置を Uダクト方式と呼んでいました。両面に多孔板を張ったUの字のステンレス製のダクトを垂直に並べフィルムベースをダクト多孔面に沿わせ多孔面から吹き出す空気圧により多孔面に接触することなくベースを乾燥させるというものでした。このUダクト、特別の製造、加工技術は必要がなく、また各種乾燥装置、設備製造を主業務とする業者も出現します。富士フィルムからの受注は同業他社との競合、見積合わせとなっていきます。又、化学設備装置に用いられていたステンレス材も置き換えられる所は他の素材、塩化ビニール等合成樹脂に変わっていきます。何時しか10名程度の従業員で賄える内外工業の規模は、その従業員は30名を超えていました。昭和45年頃を境に会社の収益は殆どない状態に達していました。富士フィルムに依存していた経営状態を自社製品をもって安定経営を図るのは経営者なら当然のことです。かねてから腹案をもっていたようです。この時期から社長(父)は公害処理機(脱臭、脱煙)の開発、商品化に独力で取組み始めます。昭和45年(1970年)父、70才の頃だったと思います。経営は赤字、銀行借入に頼る会社になっていました。

 そんな折、富士フィルムの製造部から新フィルムベース製造設備開発に際して、全面に穴をもった直径2メートル長さ10メートル円筒の試作依頼が届きます。足柄工場の生産技術部に呼ばれ説明を受けたのは、多孔円筒にフィルムベースを弦巻状に巻き付け円筒側面から空気を送り込み多孔円筒面から空気を吹付けフィルムベースを浮かせ送り出す、その円筒の製作依頼でした。父、70才の時でした。富士フィルムではこの開発は秘密裏に行っていたようです。IHIとか川重といった大手製造業者ならこの円筒容易に作れたかもしれません。そこに頼むとなれば使用目的を話さなければなりません。富士フィルムの設備製造協力業者の中に必要技術をもった人物、会社(工場)として、内外工業社長(父)が呼ばれたという次第です。

 富士フィルム生産技術部ではこの「つるまき型乾燥システム」を HAC (Helical・Air・Circulator)と呼んでいました。HAC のことは富士フィルム、社史、ホームページ「富士フィルムのあゆみ生産技術開発の成果」の中で「無接触つる巻型乾燥方式の開発」と題して以下のようにその成果を書いています。

 「この方式(U乾燥システム)では大幅なスピードアップに対応するには限界が予測されたので、この限界を打ち破るため研究を進め当社の誇るべき独創的技術である「無接触つる巻乾燥方法」を開発した。

 この方式は、その表面に多数の吹出孔をもった円筒から適度に調湿、張温された空気を全面に噴出させその噴出する空気に対し、フィルムに塗布した写真乳剤面を当てるようにして乾燥し、またその乾燥風の空気圧によってフィルムを支える無接触搬送方式でフィルムをパス、ローラーなどに触れることなく 円筒に沿ってつる巻状に搬送することができる。(システム図解が載っています)これによって乾燥工程におけるすり傷や静電気の発生を防ぐことができ、塗布スピードをアップしてもそれに対応して品質的に均一な乾燥が実現できたのである。そのうえ、乾燥風と搬送風の2系統が1系統で済み従来に比べ、乾燥装置の建設費も運転経費も少なくて済んだ。当社は「無接触つる巻型乾燥方式」を先ず、足柄工場で従来の工場の一部に採用し、次いで、富士宮工場に建設する新鋭X-レイフィルム工場から全面に採用することとした。

 「無接触つる巻型乾燥方式」を用いたX-レイフィルム量産技術の確立については、その技術の優秀性が評価され、1974年(昭和49年)3月、大河内記念技術賞を受賞、開発担当者に対して科学技術庁から同年度の科学技術功労賞が贈られ、また恩賜発明賞にも輝いた。」

 その無接触つる巻型乾燥方式の中核をなす多孔円筒を作ったのが内外工業であり、その製作には社長(父)のアイデアが盛り込まれていました。

 多孔円筒とは

 富士フィルムの生産技術部が計画した多孔円筒はステンレス製薄板の直径2メートル長さ10メートルその表面にはつる巻角度に開けられた無数の長孔があり、これを2本平行に並べ、先ずは1本目の円筒にフィルムベースをつる巻状に巻き付け、円筒内部に空気を送り込みフィルムベースと円筒表面に生じる空気圧を利用してフィルムベースをつる巻状の搬送させ、(帆走するヨットの艇と帆の関係といえば分かり易いと思います)2本目の円筒はつる巻の巻き癖を矯正するため逆巻きして搬送させる、各円筒内部にはバグフィルターを組込み清浄な空気を多孔面から吹き出し塗布ベース面を乾燥させるというものでした。

 この構想を富士フィルムから聞いた時、この円筒どう作ればよいか、その構造、構成のアイデアが直ぐ浮かんだそうです。

 円枠を作ることから始まります。先ずは平鋼で直径2メートルになるリングを作ります。そのリングの内側に嵌る正六角形(正多角形)のパイプ、アングル材等で作った枠を作ります。六角形の各辺の中心にネジ座を設けます。リングの内径側を正六角形枠、各辺の中点にあるネジ座にネジシャフトを取付け計算された長さで押し上げれば真円は出来上がります。リングと調整ネジシャフトを熔接し円枠は完成します。この円枠を2メートル毎に4個並べて、両サイドにある鏡板、径2メートルの円板とパイプの横梁(スティ)で結べば円筒骨格は出来上がります。ここに予め長孔が開けられ多孔板を熔接で張り込めば飛行機の胴体に似た多孔円筒が完成しました。スチール製で試作、実験用円筒が作られた後、全ステンレス製の多孔円筒が富士フィルム足柄工場に納品されました。昭和46年のことです。

 その後、この多孔円筒は数セットを富士フィルムに納品しますが、内外工業の収益を改善するまでには至らず、また社長(父)は自身のアイデア(公害処理機)の商品化にこだわり続けます。昭和49年秋、内外工業はその幕を閉じます。父、74才の時です。

 

 このブログ、零式輸送機の項を書くにあたり、父の昭和飛行機での本当の経歴を知りたく、現在の昭和飛行機を訪ねました。社史とDC-3型機初号機ノックダウン途中の写真を頂きました。社史には当時の機体関係技術陣として、東京製作所副長 青木喜之吉 の名がありました。海軍、空技廠から昭和飛行機に派遣された経営幹部であったようです。組立途中のDC-3型機胴体部の写真、大きさ、形といい富士フィルムの多孔円筒に似ていました。この円筒を構成した正多角形枠はDC-3型機の組立治具からヒントを受けていたのかもしれません。多孔円筒の試作が出来上がった時、父は瞬時、この写真の光景を思い浮かべていたのかもしれません。

 

 昭和飛行機でダグラスDC-3型機の初号機のノックダウンから零式輸送機に至る製造の全てに関わった海軍技師の戦後を私自身の記憶の整理を含めて書いてみました。

 このタイトルをもって第2部「その開拓者たち」は終わります。次からはテーマ第3部「炎の翼」に入ります。おおばさんはテーマ「炎の翼」のトップに九七式艦上攻撃機をもってきました。次の最初のタイトル3-1「トラ、トラ、トラ、 九七式艦攻」に進めます。(R2・1・20)

 

 このタイトルの挿し絵から

 零式輸送機二二型(L2D3)を描いています。操縦席の窓が増設されているのでそれとわかります。

 この零式輸送機の民間型(昭和飛行機では標準型と呼んでいます)、その機内に入れてもらったことがあります。4才の時、昭和18年の夏、場所は羽田飛行場の格納庫です。時、場所、その飛行機がそれと知ったは中学生の頃、ようやく航空機関係の書物が出版され始めた頃です。その時の記憶は、格納庫の中の飛行機の全景、乗せてもらった機内の光景、この二つが静止画像となって残っています。その時のこと、外から見る飛行機の美しさは、機内に入って見た灰色に塗られた恐ろし気な構造物がその美しさを無残にも打ち消していました。以来飛行機は外から見るに限るとげんざいに至っています。

 この昭和18年の夏、大日本航空輸送の零式輸送機の民間型が納入され、その引き渡し式に家族が招待されたものだと思っています。母に連れられていったことは覚えています。4才の子供でしたがこの羽田飛行場には戦争の影はまったく感じられませんでした。

 

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