2-15 藤田少佐が死んだ

  イ式重爆撃機

 九三重の悪評は次期爆撃機の出現を急がせた。だが中国での戦いは九七重の出現までの期間を何かであてねばならなかった。そこで急ぎ陸軍ではイタリアの爆撃機フィアットBR20(註1)にメをつけた。スペイン戦線でのハッスル振りを見たのである。当時の金額で六000万円を払い、七五機の機材を満洲に運んで組み立てた。これでともかく二個戦隊の戦力が生れた(註2)。だが実力は性能ほど出なくてあわてた。特に航続性能が問題にされた。

 航研機で世界記録をつくった藤田雄蔵少佐が、中支の敵戦線内に不時着をよぎなくされて戦死をしたのも、このイ式重爆撃機と軍で呼ばれたフィアット機の性能テスト中の出来事であった。

 だがこの不祥事も性能を見ると一二・七ミリ機銃を二丁つみ、さらに二0ミリ機関砲を一門後上方に備え爆弾は一トンを積込む能力があった。そして乗員は最高六名、フィアット一000馬力のエンジンを二基フルに回転させると最高四三0キロ出たというが、”航空事始”以来、輸入機を扱って手なれた日本人パイロットも、いささかこの爆撃機にはテをやいたようである。(全文)

 

註1) イタリアの爆撃機 フィアットBR20

 BR20 爆撃機

 イタリア、フィアット社がイタリア空軍向けに開発した双発爆撃機。原型機(MM274)の初飛行は1936年2月。胴体前部はジュラルミン板、後部は羽布張り、脚は引込式、エンジンはフィアットA80RC空冷星型複列14気筒 1,000hp。

 最初の生産型 BR20 は275機が生産された。その一部はスペイン内戦に参加した。機体愛称はチコーニヤ(コウノトリの意)。

 1938年にはスペイン内戦の戦訓を取り入れた BR20M、1941年にはエンジンを強化した BR20bis が合わせて250機が生産された。総生産機は525機。

 1938年に後期生産型の BR20 、85機(72機とも)が日本陸軍に輸出された。日本陸軍では イ式重爆撃機 と名付けて中支の戦線で使用した。

 

 BR20bis 諸元

 エンジン:フィアットA82空冷星型14気筒1,250hp

 乗員:6名 低翼単葉双発爆撃機

・全幅: 21.56m ・全長: 16.10m ・全高:4.30m ・自重: 6,400kg ・全備重量: 11,500kg

・最大速度: 460km/h ・実用上昇限度: 9,200m

・航続距離: 2,800km

・武装: 12.7mm機銃x1 7.7mm機銃x3 爆弾 1,600kg

 

 イ式重爆撃機

 陸軍がイタリア、フィアット社から輸入したBR20双発爆撃機。陸軍では イ式重爆撃機 と名付け、中国、中支戦線で使用した。

 支那事変が起った当時、陸軍はこの事変に対処できる重爆撃機を保有していなかった。このため陸軍ではスペイン内戦での実績を評価して、イタリア、フィアット社の双発爆撃機、BR20 を1938年(昭和13年)に85機(又は72機)を急遽輸入した。

 直ちに二個戦隊が編成され中支戦線に投入されたが、運用試験が少ないままでの戦線投入は機体各部にトラブルが続出し現地実戦部隊では不評であった。

 九七式重爆撃機が前線部隊に配備されると共に第一線から急速に退いていった。

 

 BR20(イ式重爆撃機) 諸元

 エンジン:フィアットA80RC41空冷星型複列14気筒1,000hp

 乗員:6名 低翼単葉双発爆撃機

・全幅: 21.56m ・全長: 16.10m ・全高: 4.30m ・自重: 6,400kg ・全備重量: 9,900kg

・最大速度: 432km/h (高度5,000m) ・巡航速度: 328km/h ・上昇限度: 9,000m

・武装: 12.7mm旋回機銃x2 (機首、後下方各1) 20mm旋回機銃x1 (後上方)

     爆弾1,000kg

 

 フィアット(FIAT S.p.A)

 イタリアの自動車メーカー。現在は持株会社である フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)の一部門を構成する。

 1899年にイタリア、トリノで ジョウ”ン二・アニェッリ ら実業家の出資で設立された「トリノのイタリア自動車製造所」の頭文字を取った「FIAT」が1906年正式社名となった。

 当初は競争用自動車の開発から、その後有力企業を買収して事業を拡大、1905年に造船分野に進出、1908年、航空エンジン 1914年、航空機生産開始 1936年には小型乗用車の量産化 第二次世界大戦後はいち早く大衆車の量産化を確立、トラック、バス部門を充実させ、さらに土木建設機械、農業用機械、電気・ジーゼル機関車、ジェットエンジン、ジェット機、各種エンジン、集積回路、工具、鉄鋼、アルミ、の他輸送業、旅行業、リース業、新聞・出版など広範な分野に進出した。近年は原子力、宇宙開発部門も手掛けるなど総合重工業企業を目指している。国内外に617の子会社と297の関連会社を持つ。1977年に持株会社に組織変更。(ブリタニカ国際大百科事典より)

 自動車分野では アルファロメオ、ランチァ、マセラティ、フェラーリ、などのブランドを保有。(デジタル大辞典)

 航空機関係

・フィアットCR32戦闘機(1935年) ・フィアットG18輸送機(1935年) ・フィアットBR20爆撃機(1936年) ・フィアットCR42戦闘機(1939年) ・フィアットG50戦闘機(1937年) ・フィアットG55戦闘機(1943年) ・フィアットG49練習機(1952年) ・フィアットG91戦闘機(1956年) 等、軍用機の開発を行った。

 

 アニェッリ家

 イタリアの財閥一族、一族が大株主として支配する 持株会社エクソールを通して フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)を所有。

 ジョウ”ァン二・アニェッリ:フィアットの創業者 1902年フィアット社長

 エドゥアルド・アニェッリ:ジョウ”ァン二の長男

 ジャンニ・アニェッリ:エドゥアルドの長男(1921年3月~2003年1月)

              1945年フィアットに副社長として入社、1966年フィアット会長

 ウンベルト・アニェッリ:エドゥアルドの七男(末子)

               1965年~2004年まで副会長、会長としてフィアットを経営

 アンドレア・アニェッリ:ウンベルトの長男 ユウ”ェントスFC の会長

 ジョン・エルカーン:ジャンニの娘の長男

             2004年フィアット副会長 2010年会長 フィアットを経営

 

註2) 二個戦隊の戦力が生まれた

 飛行第一二戦隊

 重爆隊:機種変遷 イ式重爆撃機 九七式重爆撃機 一00式重爆撃機

 公主嶺(満州)にあった 飛行第一二聯隊の重爆大隊、第一大隊を改編、昭和13年8月31日第二飛行集団隷下の航空部隊として公主嶺でイ式重爆撃機をもって飛行第一二戦隊(重爆3個中隊)を編成。

昭和13年9月 北支派遣、漢口攻略作戦、重慶 等奥地進攻作戦参加(イ式重爆)

昭和14年2月 公主嶺に帰還

昭和14年6月~7月 ノモンハン事件に参加(イ式重爆 九七式重爆)

昭和16年8月~11月 北支派遣、重慶、蘭州に進攻(九七式重爆)

昭和16年12月~18年5月 ビルマ、シンガポール、ジャワを転戦(九七式重爆)

昭和19年7月 比島 クラークに移動(一00式重爆)

昭和20年1月 比島 マラバンに展開 比島作戦に参加

昭和20年7月 屛東(台湾)に移動 8月15日 屛東で終戦

 

 飛行第九八戦隊

 重爆隊:機種変遷 イ式重爆撃機 九七式重爆撃機 四式重爆撃機

 上海、王賓にあった 独立飛行第三、第五中隊を改編、昭和13年8月15日 第二飛行集団隷下の航空部隊として 上海、王賓において イ式重爆撃機をもって 飛行第九八戦隊(重爆3個中隊)を編成。

昭和13年11月 漢口に移駐 奥地進攻作戦に参加(イ式重爆)

昭和14年3月 杭州に移駐 7月 奉天に移駐

      11月 敦化に移駐(九七式重爆)

昭和15年~ 中支、各地を転戦

昭和16年12月 サイゴンに展開 第三飛行集団隷下

昭和17年~18年 マレー、ラングーン、タイ、ランバン を転戦

昭和19年2月 鹿屋日本語 海軍第五航空艦隊の指揮下に入る

      6月 豊橋海軍基地で機種改変(四式重爆撃機) 7月 鹿屋 帰還

     10月 台湾沖航空作戦参加 部隊の全戦力を失う

昭和20年2月 大刀洗に移動 第二十七飛行団隷下

      3月 沖縄作戦参加のため、内地各基地に展開

      7月 海軍第五航空艦隊の指揮を脱し、第二十一飛行団司令部の指揮下に入る

         児玉に移駐 8月15日 児玉で終戦

 

 飛行第五八戦隊

 重爆隊:機種変遷 イ式重爆撃機 九七式重爆撃機

 飛行第一二聯隊、第二大隊を改編、昭和13年8月31日 第二飛行集団隷下の航空部隊として公主嶺おいてイ式重爆撃機をもって飛行第五八戦隊(重爆3個中隊)を編成。

昭和14年6月 佳木斯(満州)に移駐(九七式重爆)

昭和15年8月 広東に移駐、桂林 等を攻撃 9月 佳木斯に帰還

昭和18年2月 スマトラ島メダンに展開 7月 大場鎮に展開

昭和19年6月 1中隊をもって独立飛行三十一中隊を編成、比島バンバンに結集

昭和20年1月 仏印に展開

      8月 草屯(台湾)に移駐 8月15日草屯で終戦

 

 このタイトルから

 このタイトルのおおばさんのヒコー記、記事に沿って書いてみます。

 1936年、支那事変勃発の一年前、ヨーロッパ、スペインで内乱が起っていました。このスペインでの内戦は兵器の実験場ともいわれ日本の軍部にも大きな影響を与えていました。この内戦、短くまとめると デジタル大辞典では以下の様に書いています。

 スペイン内戦

 1936年から1939年にかけてスペインに起った内戦。人民戦線政府に対して軍部(フランコ軍)が蜂起、政府側はソ連と国際義勇軍の支援を受けたが、ドイツ、イタリアの援助を受けた軍部右翼勢力に敗れフランコ将軍の独裁体制が成立した。スペイン内乱、スペイン市民戦争ともいう。

 1939年3月、フランコ軍のマドリード入城をもって内戦は終わります。

 

 フランコ軍にはドイツ、イタリヤが、人民戦線政府側にはソ連が軍事援助を行います。この軍事援助は両陣営とも航空戦力の支援が際立っていました。支援国は航空部隊を航空機、機材を共に送り込みます。

 

 フランコ軍側に送り込んだドイツ、イタリア機は ・ハインケルHe51戦闘機(独) ・ユンカースJu52爆撃機(独) ・ハインケルHe111爆撃機(独) ・バイエルン航空機製造(メッサーシュミット)Bf109(独) ・フィアットCR32戦闘機(伊) ・サウ”ォイァ・マルケッティSM79、SM81爆撃機(伊) ・フィアットBR20爆撃機(伊) ・カプローニ・ベルガマスキCa135爆撃機(伊)

 人民戦線政府側に送り込んだソ連機は ・ポリカルポフ I-15戦闘機 ・ポリカルポフ I-16戦闘機 ・ツポレフSB-20爆撃機。いずれも支援国、自国の主力機でした。

 

 ハインケルHe51

 ドイツ、ハインケル社が開発した複葉単座単発戦闘機。初飛行は1933年、新生ドイツ空軍の主力戦闘機。スペイン内戦に各型が投入された。

 He51 諸元

 エンジン:BMW Ⅵ73Z液冷V型12気筒750hp x1

 乗員:1名 複葉単座単発戦闘機

・全幅: 11.00m ・全長: 8.40m ・全高: 3.20m ・自重: 1,460kg ・全備重量:

・最大速度: 330km/h ・航続距離: 570km

・武装: 7.92mm機銃x2

 

 ユンカースJu52/3m

 ドイツ、ユンカース社が開発した旅客機、輸送機、爆撃機。エンジンを3発にしたJu52/3mの初飛行は1932年、旅客機として使用された。スペイン内戦ではその一部が銃座、爆弾槽を設けて爆撃機として使用された。

 Ju52/3m爆撃型 諸元

 エンジン:BMW132A-1空冷星型9気筒650hp x3

 乗員:6名 ユンカース外皮 低翼単葉三発爆撃機 

・全幅: 29.2m ・全長: 18.9m ・全高: 5.55m ・自重:    ・全備重量:10,000kg

・最大速度: 265km/h ・実用上昇限度: 6,100m ・航続距離: 870km

・武装: 7.92mm機銃x3 爆弾 1,500kg

 

 ハインケルHe111

 ドイツ、ハインケル社が開発した低翼単葉双発爆撃機。設計はギュンター兄弟、初飛行は1935年。スペイン内戦に投入されたのは He111H。

 He111 H-6 諸元

 エンジン:ユンカース ユモ211-1液冷V型12気筒1,300hp x2

 乗員:5名

・全幅: 22.5m ・全長: 16.4m ・全高: 3.9m ・自重: 7,720kg ・全備重量: 12,030kg

・最大速度: 400km/h ・実用上昇限度: 8,390m ・航続距離: 2,800km

・武装: 7.92mm機銃x7 爆弾 2,000kg

 

 バイエルン航空機製造 Bf109

 ドイツ、バイエルン航空機製造Beyerishe Flugzeugwerke(後にメッサーシュミット社)が開発した低翼単葉単発戦闘機。原型機Bf109Vの初飛行は1935年5月。設計は ロベルト・ルッサー

 スペイン内戦で使用されたのは ・Bf109B ・Bf109C ・Bf109D Bf109Bの初飛行は1936年11月。

 Bf109B2 諸元

 エンジン:ユンカース ユモ210Ea640hp x1 (210G670hp x1)

 乗員:1名 低翼単葉単発戦闘機

・全幅: 9.71m ・全長: 8.56m ・全高:      ・自重:        ・全備重量:2,200kg

・最大速度: 470km/h(高度 3,000m) ・上昇限度 9,360m

・武装: 7.92mm機銃x3

 Bf109C 諸元

 エンジン:ユンカース ユモ210G680hp x1

・航続距離: 650km  

 

 フィアット CR32

 イタリア、フィアット社が開発した複葉単座単発戦闘機。

 イタリア空軍で運用が開始されたのは1935年。スペイン内戦から第二次世界大戦まで使用された。設計はディーノ・ロザテッリ。総生産機数は1,052機。

 CR32 諸元

 エンジン:フィアットA30RAbisV12 600hp x1

 乗員:1名 複葉単座単発戦闘機

・全幅: 9.50m ・全長: 7.47m ・全高: 2.36m ・自重: 1,455kg ・全備重量: 1,975kg

・最大速度: 360km/h ・上昇限度: 8,800m ・航続距離: 781km

・武装:7.7mm機銃x2 爆弾 100kg

 

 サウ”ォイァ・マルケッティ SM.79

 イタリア、サウ”ォイァ・マルケッティ社がイタリア空軍向けに開発した三発爆撃機。

 レース用に開発された機体を爆撃機に改造した機体。1936年に初飛行。1937年にスペイン内戦に投入された。生産は1943年まで続けられ、1,218機が生産された。

 SM.79 諸元

 エンジン:アルファロメオ126RC34空冷星型9気筒750hp x3

 乗員:6名 低翼単葉三発爆撃機

・全幅: 21.20m ・全長: 15.60m ・全高: 4.10m ・自重:    ・全備重量:10,500kg

・最大速度: 430km/h ・実用上昇限度: 7,000m ・航続距離: 1,900km

・武装: 12.7mm機銃x3 7.7mm機銃x2 爆弾1,250kg

 

 サウ”ォイァ・マルケッティ SM.81

 イタリア、サウ”ォイァ・マルケッティ社が開発した低翼単葉三発爆撃機。

 初飛行は1934年、スペイン内戦で用いられ、信頼性が高く1944年まで使用された。総生産機数は534機。

 SM81 諸元

 エンジン:ピアッジョP.XRC15空冷星型9気筒670hp x3

       (または ・アルファロメオ125RC35 126RC34 ・ノーム・ローヌ14K)

 乗員:6名 低翼単葉三発爆撃機

・全幅: 24.0m ・全長: 18.3m ・全高: 4.3m ・自重: 6,800kg ・全備重量: 9,300kg

・最大速度: 320~347km/h ・巡航速度: 260km/h ・上昇限度: 7,000m

・航続距離: 2000km(作戦時 1,500km)

・武装: 7.7mm機銃x6 爆弾 2,000kg

 

 カプローニ・ベルガマスキ Ca135

 イタリア、ベルガマスキ社が設計、カプローニ社が製造した低翼単葉双発爆撃機。

 1935年初飛行。スペイン内戦に用いられた。日本陸軍がフィアットBR20を購入する際、BR20と比較審査を行った機体。

 Ca135 Ⅺ 諸元

 エンジン:ピアッジョPⅪRC40空冷星型14気筒1,000hp x2

 乗員:7~8名 低翼単葉双発爆撃機

・全幅: 18.80m ・全長: 14.40m ・全高: 3.40m ・自重: 6,050kg ・全備重量: 9,550kg

・最大速度: 440km/h (高度 4,800m) ・上昇限度: 6,500m ・航続距離: 2,000km

・武装: 12.7mm機銃x3 爆弾最大 1,600kg

 

 「陸軍ではイタリアの爆撃機フィアットBR20にメをつけた」(タイトルおおばさんの記事、文章)

 爆撃機の見本市のような様相を呈していたスペイン内戦、直ぐに使える長距離爆撃機が欲しい陸軍最初に「メ」をつけたのはHe111爆撃機でした。1937年(昭和12年)、爆撃機購入使節団をドイツに派遣します。しかしドイツ軍部の反対という表向きの理由で爆撃機購入は体良く断られます。そこでHe111爆撃機と同程度の機体をイタリアで物色します。「メ」にとまったのがBR20とCa135、この2機種を比較審査、BR20を購入することを決めました。

 100機を発注、予備部品を含めて6,000万円だったとあります。当時の1万円の現在の価値は(2,000倍として)2,000万円、1機当たり12億円となります。

 1938年(昭和13年)1月に分解され船積されたBR20の第1便がイタリア空軍、フィアット技術者と共に大連に到着、順次、満州に運ばれ組立られます。たぶん満州飛行機あたりが組立場所であったと思われます。届いた機体は85機、72機とも言われています。

 組立られたBR20は「イ式重爆撃機」(イタリア式を略してイ式)と名付け公主嶺(満州)に集めます。

 

 「これでともかく二個戦隊の戦力が生まれた」(このタイトル おおばさんの記事、文章)

 昭和十三年、上海、王賓飛行場には軽爆撃機を持った 独立飛行第三中隊と九三式重爆撃機を持った 独立飛行第一五中隊が展開していました。

 昭和十三年八月十五日、その王賓飛行場で 独立飛行第三、第十五中隊を改編して、イ式重爆撃機を持った重爆隊 飛行第九八戦隊が実戦部隊として編成されます。

 同じく昭和十三年、満州、公主嶺には九三式重爆撃機を持った飛行第一二聯隊が駐留していました。

 昭和十三年八月三十一日、その公主嶺で飛行第一二聯隊を改編して、イ式重爆撃機を持った重爆隊 飛行第一二戦隊と飛行第五八戦隊が編成されます。

 飛行第一二戦隊は編成と同時に九月、北支に派遣されます。飛行第五八戦隊は公主嶺に留まります。

 その後、11月飛行第一二戦隊と飛行第九八戦隊は漢口に進出していきます。

 

 「だが実力は性能ほど出なくてあわてた。特に航続性能が問題にされた」(このタイトル、おおばさんの文章)

 イ式重爆が実戦部隊に配備されると、種々の問題が発生します。イタリア製機体の使い勝手の問題、航続性能の問題、エンジン整備の問題、等現地実戦部隊ではイ式重爆、不評でした。機体現地整備は戦隊に附属する飛行場大隊が行います。これまで九三式重爆を整備していた整備班には短期間の教習でこのような外国機を運用、整備するのはいささか無理だったようです。

 現地整備隊で手に負えないトラブルは機体メーカーが対応するのですが、なにせ外国製機体、国内メーカーは自社機の開発、製造で手一杯、敢えて関わり合いを持ちたくなかったようで問題解決に協力した形跡は見当たりません。

 陸軍だけで問題解決を図ったのでしょうか、せめて航続性能の改善だけはと藤田少佐に航続飛行の運用テストを依頼(命じ)します。

 

 「藤田少佐が死んだ」(このイ式重爆の出来事、事件におおばさんが付けたタイトルです)

 当時の陸軍発表の新聞記事です。

 「藤田機は某重要任務を帯び(昭和十四年)一月三十一日○○方面に向かいたるまゝ行方不明になりし所、地上捜索の結果、二月一日沙洋鎮付近に於いて、乗組全員、壮烈なる戦死を遂げたる事判明せり」

 イ式重爆の藤田機は長距離飛行運用テストのため(昭和十四年一月三十一日各務原飛行から上海、大場鎮飛行場へ、そこから漢口へ2500kmを飛ぶ。だが漢口一帯は悪天候のため漢口を通り過ぎ敵地、沙洋鎮付近に不時着、脱出を試みるが途中乗員全員が戦死した。

 藤田少佐が戦死するまでの経緯をブログ 「神風号の航跡、風の吹く先 43回 大飛行の夢と藤田少佐の死」に詳しく書かれておられます。藤田少佐のテストパイロットとしての力量を ブログ「航研機記録飛行パイロット 藤田雄蔵少佐の手記」の中から知ることができます。

 

 藤田雄蔵 1898年(明治31年)2月~1939年(昭和14年)2月

 陸軍軍人 最終階級は 陸軍航空兵中佐

1898年(明治31年)2月 神奈川県横浜に生まれる

1917年(大正6年)4月 横浜一中を経て 陸軍士官学校入学

1921年(大正10年)7月 陸軍士官学校(33期)卒業

            10月 砲兵少尉に任官 野戦重砲第二聯隊付

1924年(大正13年)10月 砲兵中尉に昇進

1925年(大正14年)5月 航空兵科に転じ 航空兵中尉 所沢陸軍飛行学校付

1926年(大正15年)1月 第21期操縦学生

            12月 飛行第五聯隊付 所沢飛行学校付

1930年(昭和5年)8月 航空兵大尉に昇進 所沢飛行学校教官

1932年(昭和7年)3月 飛行第五聯隊付中隊長 満州に赴任

1934年(昭和9年)8月 陸軍航空本部技術部付(立川支部)

1935年(昭和10年)2月 東京帝大航空研究所嘱託を兼務(~昭和14年1月)

            8月 陸軍航空技術研究所所員

1937年(昭和12年)8月 航空兵少佐に昇進

1938年(昭和13年)5月 航研機にて周回航続距離世界記録を樹立

1939年(昭和14年)2月 イ式重爆撃機の航続運用テスト中、中国華中で戦死、中佐に特進

 

 キ21が九七式重爆撃機(一型)として制式採用されたのは昭和12年1月、皇紀2597年(1937年)とあります。ようやくこの九七式重爆をもって部隊編成が出来たのは 昭和13年(1938年)末、と記されています。

 イ式重爆が満州で組立られ第二飛行集団の重爆戦隊として北支中支に出向いたのは昭和13年9月、漢口に展開したのは11月、陸軍が意図した長距離侵攻は出来なかったものの九七式重爆と共に運用されていたようです。

 イ式重爆の長距離航続飛行性能は藤田少佐の運用テストで実証されたわけですが、少佐の死以降、陸軍はこだわっていた長距離侵攻を作戦の変更か、効果の疑問なのか諦めていったようです。昭和14年6月のノモンハン事件の頃にはイ式重爆はそのほとんどが九七式重爆に置き換えられていったようです。

 このイ式重爆、前線部隊では使い辛い、扱い辛いとかなり不評だったようですが、導入から配備の過程を見ていますと、このイタリア製機体、使いこなせなかったというのが実情だったようです。

 

 この時期、陸軍は軽爆撃機、直協機、襲撃機を開発しています。次は海軍に戻りこの当時の艦上戦闘機のこと、タイトル、「肉を切らせて骨を切る」九六式艦戦のことです。(H31・1・28)

 

 このタイトルの挿し絵から

 フィアットBR20 こと イ式重爆撃機です。

 このタイトルの頁右側にイ式重爆全体の絵(上絵)、左側には機首に据えた12.7mm機銃を中心に機首部のクローズアップ(下絵)が描かれています。この機銃、ブレダSAFAT12.7mm機銃と言うそうです。以降の陸軍の12.7mmの主力機銃 ホ103(ブローニングAN/M2機銃のコピー)の開発に大きな影響を与えた と記されています。

 イ式重爆、中支前線の機体には迷彩が施されていました。迷彩描き入れみました。当時の中支の山岳の様相のようです。海軍九六式陸攻も同じ色合いの迷彩が施されています。

 

 大正9年(1920年)イタリア、複葉偵察機アンサドルSVA9 2機が代々木練兵所に飛来到着していますが、日本ではその他はイタリア機はほとんど馴染みがないようです。BR20の突然の登場は驚いたことと思います。この フィアットBR20と比較審査をしたのが カプローニ・ベルガマスキCa135。 「カプローニ」最近聞き覚えのある名前、調べてみました。あるアニメ映画でストーリーの狂言回しとして登場する人物 ジョウ”ァン二・パッチスタ・カプローニ、カプローニ氏が作った会社名でした。Ca135の後に作った カプローニCa309双発爆撃機その愛称が Ghibl (ジブリ)というです。

 

 佐貫亦男先生の本「飛行機の再発見」にはイタリア機は登場しませんか、本の中のコラム「各国の設計思想」の中でイタリア機の見解を短く紹介しています。

 「イタリア機は日本機とよく似て、鋭さを持つ切り込み隊専用のため、イタリア人は飛行機のスピードと形に異常な興味を示す。ところが、飛行機はこれがすべてでないこと、国力の低さで第二次世界大戦では敗退した。平和となればイタリア人の造形能力は抜群でそのフォルム(形態)の美しさできわだっている」

 

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