2-9(1) フォッカー機、飛ぶ(1)

 大日航の定期航空

 政府が腰を入れて航空輸送事業の会社を起こしたのは昭和三年に入ってからであった。大日本航空輸送会社(註1)の看板が掲げられて国内の幹線及び東京・大連、東京・新京間の長距離輸送プランも現れた。

 これまで民間定期便でハッスルしていた朝日新聞社の東西定期航空会と、川西清兵衛氏が芝浦に起こした日本航空輸送研究会の二機関は、発展的に解散して同時にこの新会社にすべてを移譲した。

 翌年四月から譲渡ラインを飛ぶ計画で、まずサルムソンを使い郵便飛行を行った。六月末にはようやく国内線用輸送機フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機六機が船で着いた。発注先のオランダ・フォッカー社製のものではなく、この時はアメリカのフォード社の機体であった。乗客六人は乗員二名の手によって最高二三五キロのスピードで東京から大阪、福岡へ、福岡から東京へそして東京、仙台と運ばれた。

 年があけると三発のF7b/3mが加わり、満洲や台湾に向けて飛立って行くようになった。

 菊池寛を始め、直木三十五、横光利一、池谷信三郎氏などの著名作家がハオリ姿で乗り込んだ写真は、いかにも新時代到来のニオイがする。

 なお東京・大阪間は三時間かかり運賃は三0円であったというが、昭和初期の価値から判断するとそれは大金を払って空を飛ぶという、つまりエリートでなければ乗ることのできないもことの高根の花であった。 (全文)

・タイトルに「大日航の定期航空」とありますが、正しくは、「日本航空輸送株式会社の定期航空」です。「日本航空輸送株式会社」はその後、改組して「大日本航空株式会社」(「大日航」)となります。

・本文中、「川西清兵衛が芝浦に起こした日本航空輸送研究会」 とありますが、正しくは、「川西清兵衛が木津川尻に起こした 日本航空株式会社」 です。芝浦に設立されたのが 「日本航空輸送株式会社」 ということになります。

・本文中、「この時はアメリカ製のフォード社の機体であった」とありますが、正しくは「アメリカのアトランティック・エアクラフト社(AAC)製の機体であった」です。フォード社が作っていたのは「フォード・トライモータ」です。

 

註1)大日本航空輸送会社

 日本航空輸送株式会社

 1928年(昭和3年)10月、逓信省所管の航空会社として東京市芝区に設立。1929年(昭和4年)、「東西定期航空会」と「日本航空((株)」(川西系)を吸収合併、航空路を拡大した。発足当初は立川(陸軍)飛行場をターミナルとしていたが、1931年(昭和6年)羽田飛行場にターミナルを移した。

 日本本土の各都市、朝鮮の各都市、中国大陸の日本租界のある都市、(東京、大阪、福岡、蔚山、京城、平壌、新義州、大連)を結ぶ航空路を運航した。

 航空路:・東京ー大阪 ・大阪ー福岡 ・福岡ー蔚山 ・蔚山ー京城 ・京城ー平壌 ・平壌ー大連

 国内線にはアメリカ、アトランティック・エアクラフト社(AAC)製 フォッカー スーパーユニバーサル(昭和3年導入) 満洲、大連、台湾線には オランダ、フォッカー社の フォッカー F-Ⅶb/3m (昭和4年導入)を用いた。

 定期航空(旅客)輸送の他に、郵便貨物輸送、遊覧飛行で収益を上げていた。

 支那事変により満洲を含む中国大陸との航空路の軍事的重要性が更に高まり、満州航空傘下の国際航空と合併し、1938年(昭和13年)12月、国策会社へと改組して 大日本航空株式会社となり、日本航空輸送株式会社は解散した。

 日本航空輸送(株) 使用(運航)機種 (ブログ「航空歴史館」より)

・フォッカー スーパーユニバーサル 1928年(昭和3年)より運航

・フォッカー F-Ⅶb/3m 1929年(昭和4年)より運航

・中島式 P-1郵便機 1933年(昭和8年)より運航

・ビーチクラフト C-17E 1935年(昭和10年)より

・三菱 エンボイ ひなつ”る型 1936年(昭和11年)より運航

・ダグラス DC-2 1935年 1935年(昭和10年)より運航

・ロッキード L14 WG3B 1935年(昭和10年)より運航

・中島 AT-2 1936年(昭和11年)より運航

・ダグラス DC-3 1938年(昭和13年)より運航

 

 大日本航空株式会社

 1938年(昭和13年)12月、日本航空輸送株式会社と国際航空(満州航空の子会社)が合併して 大日本航空株式会社となる。これに合わせて 日本航空輸送研究所、日本海航空株式会社、安藤飛行機研究所は航空輸送を停止、日本国内における航空輸送事業は 大日本航空株式会社によって統一営業されることとなった。

 運航機材は前身の 日本航空輸送(株)と国際航空から引き継いだ機体と共に、当時世界最新鋭の機材が導入された。

 航空路線としては 日本航空輸送(株)、国際航空から継承した路線が大半であったが、九七式飛行艇の民間輸送機型によって、横浜港からサイパン島、コロールといった日本の委任統治下にあった南洋諸島への長距離路線が新たに開設された。

 さらに タイのバンコック線によって オランダ航空(KLM)やインペリアル航空などのヨーロッパ系航空会社の極東線との連絡が可能となり、日本とヨーロッパ、さらにオセアニアを結ぶ航空路に連結された。

 国際線としては日本の玄関口として 雁ノ巣飛行場(北九州)が使われ、そこから ・新京 ・奉天 ・南京 ・上海 ・青島 ・北京 ・バンコック ・マニラ ・サイゴン ・ジャカルタ ・ディリー へと結ばれた。

 1941年(昭和16年)12月の大東亜戦争の開戦とともに 大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれた。戦時下において 大日本航空の機材、乗員の多くは、開戦直前に陸軍航空部隊が編成した 特設第一三輸送飛行隊 に編入され南方地域への運航を担い、さらには 南方航空輸送部 に組織改編された。

 1945年(昭和20年)8月15日をもって運航は終了した。

 大日本航空 使用(運航)機種

・ダグラス DC-3(国産化型) 1940年(昭和15年)より運航

・川西輸送飛行艇(九七式輸送飛行艇) 1941年(昭和16年)より運航

・三菱 MC-20 1940年(昭和15年)より運航

・三菱 MC-21

 

 満州航空株式会社

 関東軍からの満洲内を結ぶ軍用定期航空路の開設の要望を受け 日本航空輸送(株)の満洲代表部が、1931年(昭和6年)に設立した 関東軍軍用定期航空事務所 が満州航空の起源とされる。1932年(昭和7年)、満洲国が建国されると本店を奉天におき 満州航空株式会社 となった。

 民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運航、測量調査、航空機整備、航空機製造まで広範囲の業務を行った。満洲国における航空および航空機関係の業務を独占的に経営した。

 航空路は営業本線(幹線)として 大連ー奉天ー新京ーハルピン 満洲・支那路線として 新京、奉天、大連、佳木斯、天津 日本路線として 東京、大阪、福岡 朝鮮路線として 平壌、蔚山 があった。

 系列会社(子会社)

 国際航空株式会社

 新京とベルリンとの間の長距離定期航空路開設のため設立された。その後、日本航空輸送株式会社と合併、大日本航空株式会社となる。

 

 満洲飛行機製造株式会社

 1938年(昭和13年)、満州航空の飛行機製造部門が陸軍(関東軍)の要請に基ずき、満州重工業開発会の傘下に 満洲飛行機製造株式会社として発足。軍の指導下で中島飛行機の技術を取り入れ、満州航空の飛行機製造部門だった奉天の工場で軍用機の製造を開始する。その後主力工場はハルピンに移る。開発部門は日本国内の国立、立川にあった。

 川崎、三菱、中島、立川の航空機製造会社との生産合意の下に、陸軍各種の機体を生産した。最も多く生産されたのが 九七式戦闘機、独自の設計で生産された キ79 二式高等練習機 がある。民間機としては満州航空から生産を引き継いだ MT-1 がある。

 1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にかけて 2,192機を生産した。

 

 満州航空 使用(運航)機種

・フォッカー スーパーユニバーサル

・フォッカー F-Ⅶb/3m

・デ・ハビランド・プスモス

・満航 MT-1

・中島 AT-2

・三菱 MC-20

・ロッキード L14 スーパーエレクトラ

・ユンカース Ju86

・ユンカース Ju160

・メッサーシュミット Bf108

 

 フォッカー社

 アントニー・フォッカーによって1913年、ドイツ、ベルリンに設立。第一次世界大戦では フォッカー Dr1 戦闘機を製作、一躍有名となる。

 ドイツ敗戦後、ドイツでは航空全面禁止となり、1919年、オランダに新たにフォッカー社を設立。ここでは旅客機の分野に生産目標を変え フォッカー F.Ⅶ(フォッカー3M)などの旅客機の製造を開始した。

 アントニー・フォッカーが1922年、アメリカに移住し、フォッカー社の北アメリカ支社ともいえる企業 アントランテック・エアクラフト・コーポレーションオブアメリカ(AAC)を設立、ニュージャージー州で航空機製作を開始。フォッカー・ユニバーサル、フォッカー・スーパーユニバーサルを製造。

 1931年、アントニー・フォッカーは AAC をゼネラルモーターに売却、ゼネラルモーター傘下の ゼネラル・アビエーション となり、1933年にGM 傘下となった ノースアメリカン と合併した。

 オランダのフォッカー社は、第二次世界大戦勃発後、ドイツのオランダ占領により生産、開発を停止していたが1945年の終戦後 フォッカー社として活動を開始、1946年には F25 を開発、1950年代には旅客機 F27・フレンドシップ、F28・フェローシップ を製造。

 1990年代、ドイツのDASA(ダイムラー・ベンツ・エブロスペース・AG)から出資を受け、その後、1993年にDASAに買収され完全子会社となる。ここで フォッカー70 の開発、生産が続けられたが DASA は不採算部門を切り離し、1996年に倒産した。

 

 アントニー・フォッカー 1890年~1939年12月

 オランダ、フォッカー社の創立者 アメリカ、AACの設立者

1890年  オランダ領東インド(現在のインドネシア)のブリタールで生まれる

1894年  家族とともにオランダに戻る

1908年  ウィルバー・ライト フランスで展示飛行

       この影響を受け、航空機(飛行機)に興味を持つ

1911年  自作飛行機 フォッカー スピンの飛行でオランダで有名となる

1912年  ドイツに移り フォッカー社を設立

1914年  第一次世界大戦でフォッカー社は政府管理会社となる

       支配人としてフォッカー社に留まり フォッカーDr1、DrⅦ 等を製作

1919年  ドイツ敗戦後オランダに戻り新たに フォッカー社を設立

       フォッカー F.Ⅶ(3M)を製作

1922年  アメリカに移住 アトランティック・エアクラフト社(AAC)を設立

       フォッカー ユニバーサル、スーパーユニバーサル を製作

1931年  AACを ゼネラルモーター(GM)に売却

1939年12月 アメリカ、ニューヨーク市で死去

 

 フォッカー・スーパーユニバーサル

 アトランティック・エアクラフト社(AAC)(フォッカー社のアメリカ子会社)が開発した高翼単葉、単発小型旅客機。

 1926年に自社開発の フォッカー ユニバーサルが初飛行。ユニバーサルは燃料タンクを内蔵した高翼単葉の木製主翼と開放式の操縦席を持つ実用的な設計であったが、旅客がわずか4名だけであったため本機の拡大、改良型が求められた。これが スーパーユニバーサル となって、1928年3月に初飛行、本格的な生産が開始された。

 機体は胴体と尾翼部が鋼管熔接によるトラス構造に羽布張り、主翼は全木製の合板張りによる片持式というフォッカー本社(オランダ)の機種と変わらない構造をしていた。操縦席は主翼前方に密閉式風防となり、乗客は6名となった。派生型として水上旅客機も作られた。

 AACでは約80機を生産、アメリカ国内では短距離航空路線で使われた。

 日本での運用

 日本では1929年(昭和4年)中島飛行機がライセンス生産で47機を製作。陸軍では 九五式二型練習機として20機を採用、フォッカー患者輸送機として5機を運用。海軍では フォッカー式陸上偵察機(C2N1)、フォッカー式水上偵察機(C2N2)として、1933年(昭和8年)5月から20機を運用。

 

 九五式二型練習機 (キ6)

 1933年(昭和8年)、陸軍が中島飛行機で国産化していた フォッカー スーパーユニバーサル旅客機を機上作業練習機に改造をキ6として試作を命じた。試作機は1934年(昭和9年)3月に完成、翌1935年(昭和10年)8月に制式採用された。

 艤装を航法、通信、射撃、偵察等の訓練に使用できるように改造、不整地でも使用できるように車輪が大型化された。

 練習機としては偵察機の乗員養成のみに使用され、練習機としてよりも輸送や連絡用に利用されることのほうが多かった。

 1941年(昭和16年)頃まで使用され、中島飛行機で試作機を含め20機が生産された。

 

 フォッカー 陸上偵察機 (C2N1) 水上偵察機 (C2N2)

 陸軍の 九五式二型練習機と同型のものを海軍では偵察機(C2N1)として採用、観測のほか輸送の任務も行った。フロート(浮舟)をつけた水上型 (C2N2)もある。日華事変から太平洋戦争初期にかけて連絡機として少数機が使用された。

 中島飛行機で C2N1 C2N2 合わせて20機が生産された。

 

 フォッカー 患者輸送機

 陸軍が患者輸送用に 中島フォッカー スーパーユニバーサルを改装した機体。医官、看護員、各1名と患者3名を収容。機体は白色塗装、主翼に日の丸と赤十字、胴体に赤十字のマーク。中島飛行機で5機が生産された。

 

 満航式一型旅客機

 満州航空でフォッカー スーパーユニバーサルをライセンス生産したもの。仕様は中島フォッカー スーパーユニバーサルをと同じ。満洲国内の航空輸送に使用された。

 製作は満州航空で若干機がライセンス生産された。このスーパーユニバーサルを参考に満州航空で開発した機体が MT-1。

 

 フォッカー スーパーユニバーサル 諸元

 エンジン: P&W ワスプB 空冷星型9気筒450hpx1

 乗員:2名+乗客6名 高翼単葉、単発旅客機

・全幅: 15.43m ・全長: 11.09m ・全高:    ・自重: 1,720㎏ ・全備重量: 2,700㎏

・最大速度: 248㎞/h ・上昇限度: 6,000m ・航続時間: 5時間

 

 中島製 フォッカー スーパーユニバーサル 諸元

 エンジン: 中島ジュピター空冷星型9気筒450hpx1

 乗員: 2名+乗客6名

・全幅: 15.44m ・全長: 11.09m ・全高:    ・自重:      ・全備重量: 2,425㎏

・最大速度: 235km/h

 

 九五式二型練習機 (キ9) 諸元

 (中島フォッカー スーパーユニバーサル改造機)

 エンジン: 中島ジュピター7型空冷星型9気筒450hpx1

 乗員: 2名+作業員 機上作業練習機

・全幅: 15.44m ・全長: 14.25m ・全高: 2.819m ・自重: 1,640㎏ ・全備重量: 2,820㎏

・最大速度: 245㎞/h ・航続距離: 1,045㎞

 

 フォッカー陸上偵察機 (C2N1) 諸元

 エンジン: 中島 寿二型空冷星型9気筒460hpx1

 乗員: 2~8名

・全幅: 15.437m ・全長: 11.90m

 

 日本国内でライセンス生産された フォッカー スーパーユニバーサル

・中島製フォッカー スーパーユニバーサル

  エンジン:中島ジュピター空冷星型9気筒450hpx1 製作会社:中島 製作機数: 47機

・九五式二型練習機

  エンジン:中島ジュピター7型空冷星型9気筒450hpx1 製作会社:中島 製作機数: 20機

・フォッカー患者輸送機

  エンジン:中島ジュピター7型空冷星型9気筒450hpx1 製作会社:中島 製作機数: 5機

・フォッカー式陸上偵察機(C2N1) 水上偵察機(C2N2)

  エンジン:中島寿空冷星型9気筒460hpx1 製作会社:中島 製作機数:合計20機

・満航式一型旅客機

  エンジン:中島ジュピター空冷星型9気筒450hpx1 製作会社:満州航空 製作機数:

 

 フォッカー F.Ⅶa/3m F.Ⅶb/3m

 オランダ、フォッカー社の三発旅客機。1924年に開発された F.Ⅶ を三発にした機体、初飛行は1925年。胴体は鋼管熔接構造に羽布張り、主翼は木製の一体構造で羽布張り、乗客8名の高翼単葉、三発機。生産は主にオランダ、フォッカー社とアメリカ、AACで行われ、他に多くの国でライセンス生産された。

 機体は F.Ⅶa/3m(乗客数8名)、F.Ⅶb/3m(生産型 154機を生産)、F.10(乗客数12名)と続き、ヨーロッパやアメリカの航空会社で多くが使われた。

 1931年3月の TWA のF.10 の墜落事故は、その後の事故調査で木製機の耐久性が問題視され、ダグラスDC-2、ロッキードL14、ボーイング247 の近代的な全金属製旅客機登場の一つの契機となった。

 日本での運用

1929年(昭和4年)、日本航空輸送(株)がオランダ、フォッカー社より6機を輸入、満州、大連、台湾の海外線で用いられた。以降全金属製機と代わるまで随時輸入され、就航登録機数に15機を数える。

 

 フォッカー F.Ⅶb/3m 諸元

 エンジン:ライト ホールウィンド空冷星型9気筒220hpx3

 乗員: 2名+乗客8名 高翼単葉、三発機

・全幅: 21.70m ・全長: 14.60m ・全高: 3.90m ・自重: 3,050㎏ ・全備重量: 5,200㎏

・最大速度: 185㎞/h ・巡航速度: 170㎞/h ・航続距離: 1,160㎞

 

 中島式P-1郵便機

 1932年(昭和7年)、日本航空輸送(株)は郵便専用機による夜間郵便飛行を計画しその郵便機を中島飛行機に発注。中島飛行機は海軍の 九0式二号水上偵察機を改修して、その要望に応えた。

 初飛行はは1933年(昭和8年)1月。改造、改修部は、夜間飛行用に下翼両端に着陸用の大型照明灯を装着、ラジオビーコンや無線電話、落下傘付き照明弾の装着、複座を単座に。製作は中島飛行機で9機が製作された。

 

 中島式P-1郵便機 諸元

 エンジン:中島ジュピター6型空冷星型9気筒420hpx1

 乗員: 1名 複葉、単座、単発郵便機

・全幅: 10.92m ・全長: 7.66m ・全高: 3.10m ・自重: 1,290㎏ ・全備重量: 2,050㎏

・最大速度: 235km/h ・巡航速度: 190㎞/h

 

 中島飛行機が製作した郵便機

・中島式P-1郵便機 エンジン:中島ジュピター6型空冷星型9気筒420hpx1 製作機数: 9機

 

 九0式二号水上偵察機 (E4N)

 一五式水上偵察機の後継機の開発は、中島 と 愛知 が競作。中島飛行機はアメリカのウ”ォ-ト社のO2Uコルセア観測機を海軍仕様に国産化して対応。

 1931年(昭和6年)、愛知の九0式一号水上偵察機(E3A)とともに 九0式二号水上偵察機二型(E3N2)つぃて制式採用された。製作は中島と川西で、製作機数は152機、その内67機が川西航空機で製作された。

 九0式二号水上偵察機一型(E4N1)は、双フロート機、試作2機が製作された。九0式二号偵察機三型(E4N2-C)は陸上機とした機体。これを改修した機体に 日本航空輸送(株)の中島式P-1郵便機がある。

 

 九0式二号水上偵察機 (E4N2) 諸元

 エンジン:中島 寿二型改 空冷星型9気筒580hp x1

 乗員: 2名 複葉、複座、単発、単フロート水上偵察機

・全幅: 10.962m ・全長: 8.86m ・全高: 3.967m ・自重: 1,252kg ・全備重量: 1,800kg

・最大速度: 232㎞ ・航続距離: 1,019km

・武装:7.7mm機銃x2

 

 中島飛行機で製作された九0式二号水上偵察機二型(E4N2)

・九0式二号水上偵察機(E4N2) エンジン:中島寿二型空冷星型9気筒580hp x1

          中島飛行機製作: 85機 川西航空機製作: 67機

 

 ピーチクラフト C-17E

 ウォルター・ピーチが設立した ピーチクラフト社の最初の機体が モデル17、初飛行は1932年11月。スタッガーウイングを持つ木金属混合構造の複葉、単発の連絡機。

 最初の量産機が モデル17R、モデルA-17、B-17、C-17、D-17、F-17、G-17(戦後型)と続き、1948年までに785機が生産された。

 日本での運用

 1935年(昭和10年)、日本航空輸送(株)が C-17E 5機を輸入、多目的用途で使用した。

 

 ピーチクラフト C-17E 諸元

 エンジン: ライト ホワールウィンド 空冷星型9気筒285hp x1

 乗員: 1名+3名 複葉(スタッガーウィング)、単発連絡機

・全幅:9.754m ・全長: 7.525m ・全高: 2.46m ・自重: 970㎏ ・全備重量: 1,640㎏

・最大速度: 300㎞ ・巡航速度: 266㎞ ・上昇限度: 6,000m

 

 エアスピート As6 エンボイ (三菱 エンボイ ひなつ”る型)

 イギリス、エアスピート社の木製、低翼単葉、双発旅客機。初飛行は1934年6月、52機が生産された。

 日本での運用

 1935年(昭和10年)、三菱航空機が製造ライセンスを得て、製造サンプルとして アームストロング・シドレー・リンクス4-C空冷星型7気筒215hp x2エンジン付機と ウーズレー AR9空冷星型9気筒225hp x2エンジン付機の2機を輸入。海軍は、ウーズレー エンジン搭載機を エンボイ輸送機として要員の連絡機として試用した。

 三菱のライセンス生産試作機は、エンジンを 瓦斯電「神風」空冷星型7気筒180hp x2を付けて、1936年(昭和11年)に完成したが試験飛行で墜落。エンジンを アームストロング・シドレーに戻して、1936年(昭和11年)から1938年(昭和13年)までに 三菱エンボイひなつ”る型 として

11機が生産された。

 

 エアスピート As6 エンボイ 諸元

 エンジン: アームストロング・シドレー・リンクス4-C空冷星型7気筒215hp x2

 乗員: 1名+乗客6名 低翼単葉、双発旅客機

・全幅: 15.9m ・全長: 10.50m ・全高: 2.8m ・自重:      ・全備重量: 2,930㎏

・最大速度: 338㎞/h ・巡航速度: 309㎞/h ・上昇限度: 6,858m

・航続距離: 1,046㎞

 

 三菱 エンボイ ひなつ”る型 諸元

 エンジン: アームストロング・シドレー・チータ Ⅹ 空冷星型7気筒350hp x2

 乗員: 1名+乗客6名 低翼単葉、双発旅客機

・全幅: 16.2m ・全長: 10.50m ・全高: 3.4m ・自重: 1,716㎏ ・全備重量: 2,656㎏

・最大速度: 273㎞/h ・巡航速度: 240㎞/h ・上昇限度: 5,020m

・航続距離: 990㎞ ・航続時間: 4時間30分

 

 三菱航空機でライセンス生産されたエンボイ旅客機

・三菱エンボイひなつ”る型 エンジン:アームストロング・シドレー・チータⅩ350hp x2

                              製作会社:三菱 製作機数:11機

 

 ダグラス DC-2

 アメリカ、ダグラス社の全金属製、低翼単葉、双発14座席旅客機。

 近代的高速双発旅客機として先行した ボーイング247 にたいして、ダグラス社は12座席を持つ ダグラスDC-1 を開発、1機を試作し、1933年6月に初飛行させた。次いで DC-1 を更に改良した14座席、全金属製、モノコック構造、引込脚、可変ピッチプロペラ、着陸フラップ、を持つ DC-2 を開発した。この機体は トランスワールド航空(TWA)に引き渡され、TWAでは最終的に32機を保有、運航させた。DC-2 はTWAに続いて、オランダ航空(KLM)でも採用し、世界各国の航空会社で採用された。

 その後、DC-2の改良型21座席の DC-3 が投入されたため(1936年就航)、DC-2 の生産機数は 156機に留まった。

 日本での運用

 1934年(昭和9年)、日本航空輸送(株)は次期主力旅客輸送機として DC-2 を採用することを決め、1935年(昭和10年)8機を輸入した。日本航空輸送(株)はこの機体の国内生産の検討を中島飛行機に依頼した。中島飛行機はダグラス社とライセンス契約を結び、エンジン、プロペラ、機体主要部材、を輸入することとし、1936年(昭和11年)2月、ノックダウン生産試作1号機を完成(陸軍に納入)。生産1号機から6号機の6機を日本航空輸送(株)に引き渡した。DC-3 が登場したため、生産機数は6機に留まった。

 

 ダグラスDC-2 諸元

 エンジン: ライト サイクロン GR-F53 730hp x2

        中島製 ライト サイクロン SGR-1820-F52 750hp x2

 乗員: 2~4名 乗客14名 全金属製、低翼単葉、双発旅客機

・全幅: 25.78m ・全長: 19.1m ・全高: 4.8m ・自重: 5,650㎏ ・全備重量: 8,420㎏

・最大速度: 338㎞/h ・巡航速度: 304㎞/h ・最大実用高度: 8,420m

・航続距離: 1,750㎞

 

 中島飛行機でノックダウン生産された DC-2

・中島 DC-2 エンジン:ライトサイクロンSGR-1820-F52 750hp x2  生産機数:7機

 

 ロッキード L14 スーパーエレクトラ

 ロッキード社がダグラスDC-2、ボーイング247 に対抗するために、全金属製、12座席旅客機、L-10 エレクトラを開発、1934年に初飛行させた。L-14スーパーエレクトラ は L10の拡張型、初飛行は1937年7月。ロッキード社では118機が生産された。

 日本での運用

 1938年(昭和13年)、日本航空輸送(株)が10機を輸入(他に陸軍が20機を輸入)、1939年(昭和14年)6月から 立川飛行機で ロ式輸送機 としてライセンス生産された。(ロ式輸送機についてはタイトル「二つ目の世界記録」の中で触れました)

 

 ロッキード L-14 スーパーエレクトラ 諸元

 エンジン: ライト SGR-1820-F60空冷星型9気筒760hp x2

 乗員: 2~3名+乗客12名 

・全幅: 19.97m ・全長: 13.52m ・全高: 3.48m ・自重: 4,886kg ・全備重量: 7,955kg

・最大速度: 402km/h ・巡航速度:      ・最大上昇限度: 7,650m

・航続距離: 3,420km

 

 ボーイング 247

 アメリカ、ボーイング社の全金属製、低翼単葉、双発10座席旅客機。

 ユナイテッド航空は傘下のボーイング社にフォッカー機に代わる全金属製の機体の開発を要請、ボーイング社は全金属製構造、引込脚、等を採用、ボーイング247 10座席旅客機を1933年2月に初飛行させた。247は76機が生産され、70機がユナイテッド航空で使用、運航された。その後、後発の14座席のダグラスDC-2の登場により市場を失った。

 

 ボーイング 247 諸元

 エンジン:P&W S1H1 ワスプ550hp x2

 乗員: 2名+乗客10名 全金属製、低翼単葉、双発10座席旅客機

・全幅: 22.6m ・全長: 15.7m ・全高:3.8m ・自重:4,055kg ・全備重量: 7,621kg

・最大速度: 322km/h ・巡航速度:304km/h ・最大運航高度:7,740m

・航続距離:1,207km

 

 中島 AT-2

 中島飛行機が開発した全金属製双発10座席旅客機。

 中国大陸(満州)との航空連絡時間の短縮と満州航空からの要求で、1934年(昭和9年)末から中島飛行機、明川清技師を設計主務者として設計を開始。ダグラスDC-2、ボーイング247、の機体構造を取り入れた全金属製、低翼単葉、双発10座席旅客機を計画。先ずは設計図面上での検討用機 AT-1 を設計、検討後、実機として AT-2 を試作。試作機は1936年(昭和11年)9月に完成、初飛行に成功した。そのAT-2は直ちに満州航空に空輸された。

 AT とは Aerial Transport (輸送機)を略して AT、一説には、設計主務者が明川技師であったため Akegawa Transport 略して AT とも言われた。

 AT-2は満洲航空、日本航空輸送、引き継いだ大日本航空で用いられ、AT-2として33機が生産された。

 軍用型として陸軍は 九七式輸送機(キ34)として制式採用、307機が陸軍主力輸送機として用いられた。海軍では 中島式双発輸送機 として少数機が用いられた。

 

 中島 AT-2 諸元

 エンジン: 中島 寿八型空冷星型9気筒620hp x2

 乗員: 2~3名+乗客10名 全金属製、低翼単葉、双発10座席旅客機

・全幅:19.95m ・全長: 15.30m ・全高: 3.90m ・自重: 3,500kg ・全備重量: 5,250kg

・最大速度: 360km/h ・巡航速度: 310km/h ・上昇限度: 7,000m

・航続距離: 1,200km

 

 九七式輸送機 (キ34)

 中島飛行機の AT-2旅客機を陸軍が軍用輸送機、九七式輸送機(キ34)として軍用仕様に改修、1937年(昭和12年)11月に制式採用した。軍用機のエンジンは 中島ハ一乙九七式650馬力に換装。生産は当初は中島で行われたが、後に立川飛行機に移管され、1942年(昭和17年)に生産は終了した。

 生産総機数は318機、中島での生産は19機、立川では288機が生産された。

 

 九七式輸送機 (キ34) 諸元

 エンジン: 中島 ハ一乙 空冷星型9気筒650hp x2

 乗員: 3名+8名 

・全幅: 19,92m ・全長: 15.30m ・全高: 4.15m ・自重: 3,500kg ・全備重量: 5,250kg

・最大速度: 365km/h ・航続距離:1,270km

 

 中島飛行機が開発した AT-2型旅客輸送機

・中島AT-2 エンジン:中島ハニ四寿八型空冷星型9気筒620hp x2

                  製作会社:中島飛行機 製作機数:33機

・九七式輸送機(キ34) エンジン:中島ハ一乙空冷星型9気筒650hp x2

                  製作会社:中島飛行機 製作機数:19機

                  製作会社:立川飛行機 製作機数:288機 計309機

・中島式双発輸送機(L1N) エンジン:中島寿四一型

 

 ダグラス DC-3

 アメリカ、ダグラス社がDC-2に次いで開発した全金属製、双発21座席旅客機。

 ダグラスDC-2の拡大型として14座席分の寝台とキッチンを備えた寝台機、Douglus Sleeper Transport(DST)を開発、1935年12月初飛行。このDSTの派生型として21座席持つ旅客機をDC-3 として完成、1936年に運航を開始させた。飛行性能、輸送力と経済性を備えた機体は当時のベストセラーとなりダグラス社は1939年までに600機を生産した。

 日本での運用

 1938年(昭和13年)、日本航空輸送(株)が4機を輸入、大日本航空(株)が引継ぎ1940年(昭和15年)まで  機を輸入。1938年(昭和13年)三井物産がダグラス社からDC-3の製造ライセンスを取得、三井物産傘下の昭和飛行機株式会社で1941年(昭和16年)からDC-3の国産化が始まった。昭和飛行機はDC-3、29機を大日本航空に納入した。

 海軍では 零式輸送機(L2D)として1940年(昭和15年)制式採用した。(昭和飛行機と零式輸送機のことはタイトル「4-6 タフな働き者 DC-3型旅客機」の中で触れる予定です)

 

 ダグラス DC-3 諸元

 エンジン: ライトサイクロン GR-1820-G2 空冷星型9気筒 1,000hp x2

 乗員: 2名+乗客21名 

・全幅: 28.96m ・全長: 19.66m ・全高: 5.16m ・自重: 7,650kg ・全備重量: 11,430kg

・最大速度: 346km/h ・巡航速度: 266km/h ・実用上昇限度: 7,100m

・航続距離: 2,420km

 

 ダグラス DC-4E

 アメリカ、ダグラス社が開発した42座席四発、大型試作旅客機。(Eは試作の意味)

 1938年(昭和13年)に初飛行、試作機1機のみが製作された。

 日本での運用

 1939年(昭和14年)10月、大日本航空がこの試作機を購入。海軍はこの機体を参考にして一三試陸上攻撃機「深山」を中島飛行機で試作した。旅客機としての運行実績はない。

 

 ダグラス DC-4E 諸元

 エンジン: P&W R-2180-S1A1 ツインホーネット1,450hp x4

 乗員: 3名+乗客42名

・全幅: 42.16m ・全長: 29.83m ・全高:7.40m ・自重: 19,308kg ・全備重量: 30,164kg

 

 川西式四発飛行艇 (九七式輸送飛行艇 H6K2-L  H6K4-L)

 大日本航空に海軍から 九七式飛行艇を用いて南洋諸島(サイパン、パラオ(コロール)、トラック島など)の定期航路開設要請があり、1939年(昭和14年)大日本航空海洋部が設立された。1941年(昭和16年)1月から大日本航空は九七式輸送飛行艇を 川西式四発飛行艇の名で南洋諸島定期便を開設した。

 九七式輸送飛行艇 H6K2-L  H6k4-L は1940年(昭和15年)から1943年(昭和18年)までに38機が生産され、その内18機が大日本航空で使用された。

 

 九七式輸送飛行艇飛行艇 H6K2-L 諸元

 エンジン: 三菱 金星四三型空冷星型複列14気1,070hp x4

 乗員: 2~3名+乗客10~14名

・全幅: 40.0m ・全長: 25.60m ・全高: 6.27m ・自重: 10,340kg ・全備重量: 18,000kg

・航続距離: 4,130km

 

 川西航空機で製作された 九七式輸送飛行艇 H6K2-L H6K4-L

・九七式輸送飛行艇 H6K2-L エンジン:三菱金星四三型空冷星型複列14気1,070hp x4

・九七式輸送飛行艇 H6K4-L エンジン:三菱金星四六型空冷星型複列14気1,070hp x4

                   製作会社:川西航空機 製作機数:H6K2-L、H6K4-L 計38機

 

 三菱 MC-20-Ⅰ MC-20-Ⅱ

 一00式輸送機 キ57-Ⅰ キ57-Ⅱ

 三菱重工が製作した双発輸送機

 1939年(昭和14年)、陸軍が三菱に九七式重爆撃機をベースにした輸送機、キ57の開発を要請。1940年(昭和15年)8月に機体が完成、一00式輸送機(キ57-Ⅰ)として制式採用され、9月に民間型 MC-20-Ⅰ が完成、大日本航空に引き渡された。

 一00式輸送機 キ57-Ⅰ MC-20-Ⅰ(エンジン:中島ハ五改950hp x2)は1940年(昭和15年)度に27機、1941年(昭和16年)度に69機、1942年(昭和17年)5月迄5機の101機が生産された。1941年(昭和16年)改修が計画され、改修型(エンジン:三菱金星ハ-101 1,055hp x2)の一00式輸送機 キ57-Ⅱ  MC-20-Ⅱ として1942年(昭和17年)5月に完成、1942年(昭和17年)、72機 1943年(昭和18年)、221機 1944年(昭和19年)、113機 の406機が生産された。

 

 一00式輸送機 (キ57-Ⅰ) 諸元

 エンジン:中島ハ五改 空冷星型複列14気筒850hp x2

 乗員: 4名+乗客8名 双発輸送機

・全幅: 22.60m ・全長: 16.10m ・全高: 4.77m ・自重: 5,522kg ・全備重量: 7,860kg

・最大速度:430km/h ・上昇限度: 7,000m ・航続距離: 1,500km

 

 一00式輸送機 (キ57-Ⅱ) 諸元

 エンジン:三菱ハ102 空冷星型複列14気筒 1,080hp x2

 乗員: 4名+乗客11名

・機体寸法は キ57-Ⅰ と同じ ・自重: 5,585kg ・全備重量: 8,173kg

・最大速度: 470km/h ・上昇限度: 8,000m ・航続距離: 1,500km

 

 三菱重工業が製作した双発輸送機

・一00式輸送機 キ57-Ⅰ(三菱MC-20-Ⅰ)

  エンジン:中島ハ五改空冷星型複列14気筒850hp x2 製作機数:101機

・一00式輸送機 キ57-Ⅱ (三菱MC-20-Ⅱ)

  エンジン: 三菱ハ102空冷星型複列14気筒1,080hp x2 製作機数:406機

 

 三菱 MC-21 貨物輸送機

 九七式重爆撃機の武装、装備を取り外して貨物輸送機に改造、改造は三菱重工が行い、1941年(昭和16年)、大日本航空に引き渡された。大日本航空では軍の貨物輸送に用いた。

 (九七式重爆撃機のことは、タイトル「2-20 乗員七名 爆弾1トン」として書かれていますが、註を取りより詳しく書きたいと思います。)

 

 ユンカース Ju86

 ドイツ、ユンカース社の全金属製、応力外皮構造、双発爆撃機(軍用型)、旅客機(民間型)

 1934年11月に軍用型、1935年1月に民間型が初飛行。軍用型は A, D, G 型があり、民間型に B, C, K, Z 型がある。軍用、民間型を含めて 1936年から1939年迄に840機が生産された。

 日本(満洲)での運用

 1937年(昭和12年)8月、満洲航空が Z型 1機を輸入、1939年(昭和14年)迄に 5機を追加輸入。1945年(昭和20年)には20機を運用していた。

 

 Ju86 G-1(軍用型) 諸元

 エンジン: BMW132N 空冷星型9気筒860hp x2

 乗員: 4名

・全幅:22.60m ・全長: 17.20m ・全高:4.70m 

・最大速度: 360km/h ・航続距離: 1,400km 

 Ju86 Z (民間型) 諸元

 エンジン: BMW132Dc空冷星型9気筒860hp x2

 乗員: 2名+乗客10名

・航続距離: 1,500km

 

 ユンカース Ju160

 ドイツ、ユンカース社の全金属製、主翼は外皮(ユンカース外皮)、胴体は平板外皮構造の低翼単葉、単発郵便6座の旅客機。

 Ju60を基に、ハインケルHe70 や ロッキードL9オライオン と同じ高速旅客機の市場を目指して開発された。1934年1月、初飛行は試作機を含め47機が生産された。

 日本(満州)での運用

・満洲航空: 2機が登録されている

・海軍: ユンカース160型輸送機(LX1)として1機を試用

・陸軍: ユンカース式患者輸送機として2機を運用

 

 Ju160 諸元

 エンジン: BMW132A 空冷星型9気筒652hp x1

 乗員: 2名+乗客6名

・全幅: 14.32m ・全長: 12.0m ・全高: 4.0m ・自重: 2,320kg ・全備重量: 3,450kg

・最大速度: 340km/h ・巡航速度: 315km/h ・航続距離: 1,200km

 

 ハインケル He70 ブリッツ

 ドイツ、ハインケル社が開発した旅客、連絡機(民間型) 偵察、爆撃機(軍用型)。

 機体構造は木製主翼(合板張り)に楕円翼、胴体は金属製(マグネシウム合金)。低翼単葉、単発多用途機、初飛行は1932年12月。

 He 70a(試作初号機) He 70b(試作2号機、民間型) He 70c(試作3号機、軍用型) He 70d(試作4号機、民間型) He 70e(試作5号機)

 He 70A(民間型) He 70D(民間型) He 70E,F(軍用型) He 70G(民間型) の型式があり、1935年から1939年迄、生産された。生産機数は324機。

 日本での運用

 海軍が 愛知時計電機の名目で、1937年(昭和12年)民間型1機を輸入。愛知ではこの機の主翼の楕円翼の形状を 愛知、九九式艦上爆撃機に取り入れている。

 

 He 70F(軍用型) 諸元

 エンジン: BMW VⅠ7.3z 液冷V型12気筒750hp x1

 乗員: 2名 低翼単葉、単発偵察機

・全幅: 14.78m ・全長: 11.70m ・全高: 3.10m ・自重: 2,300kg ・全備重量: 3,420kg

・最大速度: 360km/h ・最大上昇限度: 8,000m ・航続距離: 1,800km

・武装:7.92mmMG15機銃x1

 

 ハインケル He116

 ドイツ、ハインケル社が開発した低翼単葉、四発連絡機、偵察機。

 木製楕円主翼、胴体は金属製、楕円翼を持つ He70と構造の多くが共通。機体形体はHe70の主翼に4基のエンジンを取り付けたものとなった。初飛行は1937年初旬。

 116A V1号機から V6号機 の6機 116B-0 の6機 116B V7号機から V14号機 の8機が1938年に製作された。

 日本(満州)での運用

 1938年(昭和13年)4月 He116A V5号機、V6号機 の2機を輸入。その後、満洲航空で「乃木号」、「東郷号」の名前で、東京ー新京間の連絡に用いられた。

 

 116A 諸元

 エンジン: ヒルトHM50BC 空冷倒立244hp x4

 乗員: 3~4名 低翼単葉、四発連絡機

・全幅: 22.0m ・全長: 13.7m ・全高: 3.3m ・自重: 4,050kg ・全備重量: 7,130kg

・最大速度: 375km/h ・実用高度:7,600m ・航続距離: 3,500km

 

 バイエルン Bf108

 ドイツ、バイエルン航空機製造(BFW)(後のメッサーシュミット社)で開発された、低翼単葉、単発、4座のスポーツ機、連絡機。1934年、初飛行。

 Bf108b型は1935年から1942年迄に約500機が生産された。

 日本(満洲)での運用

 1936年(昭和11年)8月、読売新聞社が連絡機として Bf108b 1機を輸入。満洲航空では プスモス機の後継機として 機を輸入。

 

 Bf108b 諸元

 エンジン: アルグスAs10C空冷倒立240hp x1

 乗員: 1名+乗客3名 全金属製、低翼単葉、単発、4座連絡機

・全幅: 10.62m ・全長: 8.29m ・全高: 2.10m ・自重: 805kg ・全備重量: 1,400kg

・最大速度: 300km/h ・巡航速度: 260km/h ・実用上昇限度: 6,200m

・航続距離: 1,000km

 

 満洲航空 MT-1 「隼型」

 満洲航空で開発した低翼単葉、単発、旅客機。

 1935年(昭和10年)、運航中のスーパーユニバーサル機の後継機の自社開発が企画、計画され、スーパーユニバーサル機の構造を参考にして試作機を製作、1937年(昭和12年)4月奉天飛行場で初飛行。機体、主翼は全木製構造に合板、羽布張り、胴体は鋼管熔接にジュラルミン板と羽布張り、初飛行後、直ちに生産に入った。

 満洲航空では35機が生産され、全機が満洲航空での旅客輸送に使われた。日本国際工業(満洲飛行機)でも20機が生産された。

 

 MT-1 「隼」 諸元

 エンジン: 中島 寿改 空冷星型9気筒460hp x1

 乗員: 2名+乗客6名 低翼単葉、単発旅客機

・全幅: 13.6m ・全長: 9.4m ・全高: 3.6m ・自重: 1,700kg ・全備重量: 2,700kg

・最大速度: 240km/h ・巡航速度: 200km/h ・実用運用高度: 6,000m

・航続距離: 900km

 

 満洲航空で製作された MT-1「隼」

・MT-1「隼」 エンジン:中島寿二型改空冷星型9気筒460hp x1

                      製作会社:満洲航空 製作機数:35機

                      製作会社:満洲飛行機 製作機数:20機

 

 以上、フォッカー機から近代輸送機に移行していく過程に登場する機種を並べてみました。

 ここで、このブログの文字数が限度に達したようです。このタイトルを二つに分けます。

 ここまでを 2-9(1)「フォッカー機、飛ぶ(1)とし、「このタイトルから」からを、2-9(2)「フォッカー機、飛ぶ(2)」として続けます。(H30・5・10)

 

 このタイトルの挿し絵から

 フォッカー F.Ⅶb/3Mです。

 飛行中の日本航空輸送のフォッカー機の写真からのようです。角度を少し変えて描いています。写真からは尾翼に J 胴体には J-BBZO と読み取れます。

 この機体の着色絵はがき があります。そこから色を付けてしまいました。この塗装色はフォッカー機(オランダ、フォッカー製)の標準塗装のようです。