1-26 三枚羽根の雷撃機

     10式艦上雷撃機

 魚雷を抱えて行ってブッツケロ、大正十一年八月、三菱名古屋製作所で国産雷撃機が生まれた。海軍一0式艦上雷撃機(註1)、三層になった翼をもつのが特色。せまい飛行甲板での取扱いを考えての設計だそうだが、雷撃機としての実用性には欠点が多くでたそうである。大正十二年後半までに二0機を生産したあと、一三式艦攻(註2)にバトンをゆずった。

 ネピア・ライオン・四五0馬力エンジン付きで速度最大で二0五キロだが、巡航速度は一三0キロ、二時間ないし三時間飛ぶと着陸しなければならない。二トン半の総重量。魚雷は一本積んでの雷撃ができた。 (全文)

 

註1) 一0式艦上雷撃機

 十年式艦上雷撃機

 海軍が大正10年(1921年)、三菱内燃機製造に指示して、イギリス、ソッピース社から招請した、ハーバード・スミス技師らの設計で三菱が製作した単座艦上雷撃機。

 航空母艦に搭載することを前提として設計された機体。空母の限られたスペース、充分な搭載量(魚雷搭載)、かつ運動性の良い機体を要求したため、その条件を満たす形態として三葉が採用された。

 試作機は大正11年(1922年)8月に完成。その後、十年式艦上雷撃機として制式採用された(一0式とには改称されていない)。大正12年(1923年)12月、日本初の空中水雷発射実験に成功した。

 実際の運用で、機体が高すぎること、単座のため攻撃に正確性が欠けること、後方防御武装がないこと、等の問題点が指摘され、大正12年までに、20機が生産されたところで生産が中止された。

 

 十年式艦上雷撃機 諸元

 エンジン:ネィピア・ライオン液冷W型12気筒450X1

 乗員:1名 三葉、単座、雷撃機(攻撃機)

・全幅:13.26m ・全長:9.78m ・全高:4.45m ・自重:1,370kg ・全備重量:2,500kg

・最高速度:209.4km/h ・航続時間:2.3時間

・武装:18インチ魚雷X1

 

 三菱内燃機が製作した、「十年式艦上雷撃機(1MT:三菱の記号)」

十年式艦上雷撃機 エンジン:ネィピア・ライオン液冷W型12気筒450hp  製作機数:20機

 

註2) 一三式艦攻

 一三式艦上攻撃機(B1M)

 十年式艦上雷撃機の問題点を改善した、新たにハーバード・スミス技師らによって設計、三菱内燃機で製作された、三座(複座)、複葉艦上攻撃機。

 試作一号機は大正12年(1923年)11月に完成、翌大正13年(1924年)、一三式艦上攻撃機として制式採用された。

 操縦席と後部席に銃座を持つ実用性の高い機体に仕上がった。航空母艦搭載のため、主翼は後方に折り畳み可能な構造を有していた。第一次上海事変で初めて航空母艦から発進艦上攻撃機として爆撃任務を行った。

 大正12年(1923年)から生産が始まり、昭和8年(1933年)までに、広海軍工廠で生産された40機を含め、444機が生産された。

 搭載エンジンにより、一号(B1M1) 二号(B1M2) 三号(B1M3) の3タイプがある。二号二型からは、三座となった。

 

 一三式三号艦上攻撃機(B1M3) 諸元

 エンジン:イスパノ・スイザ水冷V型12気筒450hpX1

 乗員:3名 三座、複葉艦上攻撃機

・全幅:14.76m ・全長:10.125m ・全高:    ・自重:1,750kg ・全備重量:2,900kg

・最高速度:198km/h ・航続時間:5時間

・武装:7.7mm機銃、機首固定、後部旋回各1 18インチ魚雷X1 又は 250kg爆弾X2

 

 三菱内燃機(B1M)、広海軍工廠(B1H)で製作された一三式艦上攻撃機

・一三式艦攻一号(B1M1) エンジン:ネィピア・ライオン液冷W型12気筒450hp

・一三式艦攻二号(B1M2) エンジン:イスパノ・スイザ水冷V型12気筒450hp

                         ヒ式450馬力 直結型

・一三式艦攻三号(B1M3) エンジン:ヒ式450馬力 減速型

                         三菱内燃機、製作機数 404機(各型合計)

                         広海軍工廠、製作機数 40機

 

 このタイトルから

 ハーバード・スミス技師について

 1916年、ソッピース社において、ハーバード・スミスは主任設計者となる。スミス技師のもとで、第一次大戦の傑作機が生み出される。まずは、・ソッピース1/2ストラッター ・ソッピース パップ が生産される。

 1917年、ソッピースパップに小さい3枚の翼と強力なエンジンを備えた ソッピース トライプレーン(ソッピース三葉機)を製作。このトライプレーンの活躍の影響を受けて登場したのが フォッカーDr1(フォッカー三葉機)。

 1918年夏、ソッピース キャメル、部隊配備。1918年冬、ソッピース スナイプ、前線配備させる

 1921年(大正10年)、三菱内燃機からの依頼で、日本海軍航空機の技術指導をスタッフ9名と共に三年間に渡って行う。来日後、スミス技師が中心になって設計した最初の機体は、単座戦闘機、複座偵察機、と単座雷撃機がある。この三機種は大正10年(1921年)から大正11年(1922年)にかけて相次いで完成、一0式艦上戦闘機、一0式艦上偵察機、十年式艦上雷撃機、として海軍初の制式機として制式採用された。

 

 一0式艦上偵察機(C1M)

 ハーバード・スミス技師らが設計した艦上偵察機。一0式艦上戦闘機を大型にした機体。大正12年(1923年)11月、一0式艦上偵察機として制式採用された。

 実機での偵察任務は、一三式艦上攻撃機に兼務させたため、複式の操縦装置を追加、中間練習機(一0式艦上偵察機二型C1M2)として昭和10年頃まで使用された。

 

 三菱内燃機で製作された「一0式艦上偵察機」

・一0式艦上偵察機一型(C1M1) エンジン:イスパノ・スイザ水冷V型8気筒300hp

                               (ヒ式300馬力)

・一0式艦上偵察機二型(C1M2) エンジン:ヒ式300馬力

                            三菱内燃機、製作機数 159機

 

 主翼の枚数について

 三葉主翼機についてウイキペディアでは「三葉機」と題して、その設計原則を紹介しています。

 主翼の枚数については、佐貫先生の本「飛行機の再発見」の中で「主翼の枚数」と題して、主翼の枚数とプロペラ枚数の関係について書かれています。

 

 「三葉機」 ウイキペディアより

 三葉機は広義の複葉機のうち、3つの翼を配置したものである。特に主翼3枚を上下方向に並べたものを指すことも多い。

設計の原則:三葉配置は、複葉機(二葉機)といくつかの点で比較されることがある。

 三葉配置は、同程度のスパンと面積を持つ複葉機よりも狭い翼弦長を持つ。この特徴はそれぞれの翼をスレンダーにする形で現れ、同時に高いアスペクト比を付与する。これらは翼をより効率的にして揚力を増大する。こうしたことは潜在的により速い上昇率と小さな旋回径を与え、両方とも戦闘機には重要である。ソッピース トライプレーンはこの成功例であり、同型のソッピース パップ複葉機と同じ翼幅を持っていた。

 または、三葉機は複葉機に与えられた翼面積およびアスペクト比を比較して減少したスパンを持ち、これによりコンパクトで軽量な構造へと至る。このような潜在性は戦闘機により良い格闘戦性能を付与し、また大型に対してはより高い搭載量と、地上での取り回しの良さという実用性を与えた。伝説の第一次大戦のエース「レッドバロン」で有名なフォッカーDr1三葉機はこの二つの設計要求の間に釣り合いを取り同型のフォッカーDⅥよりも適正化された短いスパンと適正化された高いアスペクト比を持っていた。

 三度目の比較は、同じ翼設計を持つ複葉機と三葉機の間でなされる。三葉機の第三の翼は増大した翼面積を提供し、これは非常に大きな揚力を与える。追加される重量は、全体的な構造で増した余裕で部分的に相殺され、より効果的な構造が許容される。

 こうした利点は、どのような設計が行われるにせよ、多かれ少なかれ相殺される。それは追加重量と支柱構造の空気に対する抗力、および積み重ねられた翼というレイアウト固有の、空気力学的な非効率性による。複葉機の設計が進歩し三葉機の不利が利点を上回ったことは明確になった。

 一般に三葉のうち最も低い翼は、飛行機の胴体下面と同程度の高さに設けられ、中段の翼は胴体上面と同じ位置につき、最上部の翼は胴体の上の支柱で支えられた。

 1922年(大正11年)、日本海軍が艦上攻撃機として三菱内燃機が開発した、十年式艦上雷撃機を制式採用した、海軍が採用した唯一の三葉機であったが、整備の困難さや、防御武装がなかったことなどから20機の生産にとどまった。

 

 「主翼の枚数」 ’飛行機の再発見’より

 現在の飛行機は一枚羽根、すなわち単葉だが、第一次大戦中と後はほとんど二枚羽根、すなわち複葉であった。

 プロペラはエンジンの馬力が増し、高速化するにつれて、二枚羽根から三枚羽根、第二次大戦後期では四枚羽根から五枚羽根(日本の震電は六枚羽根)、その後大型プロペラ機では6枚羽根から8枚羽根まで増した。

 この主翼の枚数とプロペラの枚数が反対の傾向になったのはなぜであろうか。それは主翼でもプロペラでも枚数が少ないほうが得であるのにいろいろ注文がついたからである。

 第一次大戦では格闘戦が強調されたので、単葉より翼幅が短くなる複葉、ときには三葉が好まれた。その影響で、あまり格闘をする必要のない爆撃機でも複葉となった。

 第二次大戦では格闘よりも高速に重点が置かれた。いくら格闘戦に入ったらねじ伏せてやるぞといばったところで相手に置いて行かれたのでは戦闘にならなかった。

 そうなると、支柱だの張線だのがある複葉ではよけいな抵抗が多くて高速が出せない。そのために飛行機は全部単葉になって、複葉機はクラシック機になり果てた。

 プロペラもほんとうは二枚羽根くらいにしたいところだが、馬力を増すのに、直径が制限されたから、羽根枚数を増すより手段がなくなった。また、なぜ直径が制約されたかといえば、機体を大型にしないためよりはむしろ羽根先端速度が音速を越さないようにするためであった。

 プロペラの直径が大きくなったら、回転速度を下げれば羽根先端速度も下げられる。しかし、このとき羽根角も同時に大きくなり、ある限界を越すと失速して、エンジン馬力は吸収するが、ちっとも推力を発生してくれない。

 こんなわけで飛行機の主翼とは反対にプロペラ羽根枚数は増す一方になり、そのうち八枚羽根となったところで、すくなくとも大型プロペラ機は限界にきて、複葉機同様にクラシック機になりかかっている。(この本は昭和53年に書かれています)

 

 海軍機の命名

 機体命名の形式、大正10年から昭和17年まで

・制式採用の年が、大正10年(1921年)から昭和3年(1928年)までは、年式に元号を使用。

  年式(元号)+機種名  一0式艦上戦闘機

・大正13年(1924年)、制式採用機からは、機種、製造会社記号を付記。

  年式(元号)+機種名+記号  一三式艦上攻撃機(B1M)  

・制式採用の年が、昭和4年(皇紀2589年、1929年)から昭和17年(皇紀2602年、1942年)

  までは、年式に皇紀を使用。

  年式(皇紀)+機種名+記号  八九式艦上攻撃機(B2M)  零式艦上戦闘機(A6M)

 

 機種記号

・A:艦上戦闘機 ・B:艦上攻撃機 ・C:偵察機 ・D:艦上爆撃機 ・E:水上偵察機

・F:観測機 ・G:陸上攻撃機 ・H:飛行艇 ・J:陸上戦闘機 ・K:練習機 ・L:輸送機

・M:特殊攻撃機 ・N:水上戦闘機 ・P:爆撃機 ・Q:哨戒機 ・R:陸上偵察機

・S:夜間戦闘機 ・MX:特殊機、特殊滑空機

 

 製造会社記号

・A:愛知時計 ・H:広海軍工廠 ・K:川西航空機 ・M:三菱内燃機 ・N:中島飛行機

・NiP:日本飛行機 ・W:渡辺鉄工所/九州飛行機 ・G:瓦斯電(日立) ・I:石川島重工

・S:佐世保海軍工廠 ・S1:昭和飛行機 ・Y:横須賀海軍工廠 ・Z:美津濃

 

 海軍機年表 大正14年から昭和2年

1925年(大正14年)10月 一三式練習機を制式採用

1926年(大正15年・昭和元年)6月 戦艦「長門」よりニ式水偵、射出実験に成功

        この年、一四式一号水偵を制式採用

             中島、三菱、愛知、に三式艦戦の競争試作を命じる

1927年(昭和2年)3月 空母「赤城」、完成

           4月 海軍航空本部を設置

           5月 一五式水偵、一四式二号水偵を制式採用

 

 一三式練習機(K1Y)

 横須賀海軍工廠で開発した、単座、複座、複葉機

 イ号甲型水上偵察機、アウ”ロ式練習機の後継機として、横廠で開発、設計された。

1925年(大正14年)に試作機が完成、同年10月に制式採用された。

 一三式陸上練習機(K1Y1)と一三式水上練習機(K1Y2)の二機種があったが、主に水上機型が生産され、横廠、川西、渡辺、合わせて100機余りが生産された。昭和10年頃には多数が民間に払い下げられた。

 

 一三式水上練習機(K1Y2) 諸元

 エンジン:瓦斯電ベ式130馬力(ベンツBzⅢ)水冷直列6気筒130hp

 乗員:2名 単発、複座、複葉練習機

・全幅:10.21m ・全長:8.68m ・全高:3.47m ・全備重量:1,056kg(陸上型は926kg)

・最高速度:130km/h(陸上型は143km/h) ・航続時間:3時間

 

 横廠、川西航空機、渡辺鉄工所で製作された「一三式水上練習機」

・一三式水上練習機(K1Y1) エンジン:ベ式130馬力  製作機数

・一三式水上練習機(K1Y2) エンジン:ベ式130馬力  製作機数

                     横廠、製作機数

                     川西、製作機数

                     渡辺、製作機数       3社合計104機

 

 渡邊鉄工所(九州飛行機)

 会社沿革

1886年(明治19年) 渡邊藤吉本店の付属工場として博多に開設。 水揚げポンプ等を製作

1904年(明治37年) 陸軍の輜重車輌の製作で軍需に参入

1916年(大正5年) 本店とは別に、合資会社渡邊鉄工所に改組

1919年(大正8年) 株式会社渡邊鉄工所に改組

1921年(大正10年) 海軍指定工場となり、魚雷部品(魚雷発射管)の製造を開始

1923年(大正12年) 航空機用車軸を試作、航空分野に関係を築く

1930年(昭和5年) 福岡県雑餉隈に飛行機製造工場を新設

1931年(昭和6年) 三式二号陸上初歩練習機、試作一号機完成、生産を開始

1932年(昭和7年) 魚雷の製造を開始

1934年(昭和9年) 九六式小型水上偵察機、完成。生産を開始

1943年(昭和18年) 航空機部門を分離し、九州飛行機株式会社を設立

             渡邊鉄工所は、九州兵器株式会社に改称

 

 大正10年、イギリスからセンビル教育団、時を同じくして、ソッピース技師団が来日します。その技術指導によって、海軍の技術水準は一挙に高められます。

 大正の終わりには、艦載機の機種、機数も揃います。鳳翔に続く次の空母の完成が待たれるところで大正が終わります。

 昭和3年からの海軍年表は、2部に入り、タイトル「サムライは刀を抜いた」の中から続けます。

 次のタイトル「艦より飛び出せ、砲身上の滑走路」に進みます。 (H29・11・3)

 

 このタイトルの挿し絵から

 十年式艦上雷撃機 だそうです。一0式艦上攻撃機 とは呼ばないようです。

上の絵:おおばさんが描く複(三)葉機、定番の画風の中、ただいま帰投中、空母などこ・・・などと想像して見ています。

下の絵:マンガ風に、魚雷投下の図(絵)です。機体の下方に空中を飛ぶ魚雷が描かれています。紙面の都合で魚雷部はカットしました。操縦士は一人(単座)、魚雷を抱かなければこんな大きな機体にはなりません。魚雷の絵は必要です、といったところの絵として見ています。

 日本にも三葉機があったよ、と教えてくれたのが、マルサン商店が発売した十年式艦上雷撃機のプラモデル(1/50)、昭和33~4年頃の発売だったと思います。作ってみました。途中でギブアップ、翼を三層に支柱で積み上げるのは至難の業でした。以後、複葉機のプラモデルは見かけません。

 

航空機に関する最近のニュース