首を吊ったおばあさんが運ばれてきた。首を吊ることを縊頚(いけい)という。近くに遺書があった。警察は自殺と判断した。明らかに自殺と判断された遺体は、必ずしも解剖になるとは限らない。事件性がないので、解剖されることなく後の処理がされることも多い。今回の場合は、解剖することになった。

 おばあさんの顔を見るとうっ血していない。赤くなっていない。うっ血とは、血液が溜まった状態をいう。通常、首をロープなどで吊ると、顔面は真っ赤になる。首の左右には太い動脈と静脈が並んで走っている。動脈の壁に比べて静脈の壁は薄いので、圧迫されると静脈の流れはすぐに止まる。動脈の流れはなかなか止まらない。

 心臓から脳へ血液を供給する動脈には、2系統ある。一つは、今言った首の左右を走っている太い動脈、総頸動脈と呼ばれるものである。もう1系統は、椎骨動脈である。これも首の左右に一本ずつあるのだが、首の骨(頚椎)の中を通って、脳へ血液を運んでいる。椎骨動脈の流れを止めるためには、首を吊った時に、足が地面から完全に浮いていなければならない。首の強い圧迫が加わらないと椎骨動脈の流れは止まらない。

 首を吊って自殺したおばあさんの顔面はうっ血していなかった。それは、総頸動脈と椎骨動脈の2系統の動脈系の血液の流れが止まったからだ。つまり、おばあさんは首を吊った時に、足が地面から完全に浮いていたということになる。

 おばあさんのような首をつり方を、定型縊頚(ていけいいけい)と呼ぶ。ロープなどの索状物で首を吊った時、索状物が体の左右対称で、体がどこにも接触していない状態のとき、定型縊頚という。それ以外のすべての首のつり方は、非定型縊頚と呼ぶ。定型縊頚と非定型縊頚。非定型縊頚のときは顔面はうっ血して赤くなる。結膜には、溢血点という出血も現れる。だが、定型縊頚のときは、このおばあさんのように、顔面はうっ血しない。この2種類の首のつり方で、顔の見た目が違う。どのように見た目がちがうのか。また、なぜそのような違いが起こるのか。法医学試験の山の一つである。