2月3日は節分。元は、立春・立夏・立秋・立冬の各前日を「季節の分け目」の意味で節分と言うそうですが、今や、節分と言えば『豆まき』と言うほど、この日の行事だけが有名になってしまいました。

もちろん、風物詩として、お父さんが鬼になって家族で豆まきを楽しんだり、微笑ましい光景で何もケチをつける必要などないことなのですが、改めて考えてみたいことがあります。

 まず『豆まき』は仏教行事ではありません。なぜか?問題はその中身です。

「鬼は外 福は内」というのは、ほとんどの人にとって、「鬼は外=自分にとって好ましくない災いや病気など思い通りにならないことは、どこか自分以外の他所(よそ)へ行ってくれ」「福は内=宝くじが当たる、病気が治るなど自分が幸運と思うこと、思い通りになることは自分だけの所へ来てくれ」という思いではないでしょうか。

確かに、病気を抱えている方(かく言う私もそうですが)にとっては、すがれるものなら、何でもやって病気という「鬼」を追い出したい、この苦しみから逃れる「福」に来て欲しいという思いは切実なものでしょう。私も友人が私を気遣って『節分に豆をまいて病気を追い払え』と言ってくれたこと、涙が出るほど嬉しい一言です。

けれど、残念ながら、人生における「苦」は、そんなことでは何も変わらないことは、皆様先刻ご承知の通りです。それならば、なぜみんなが初詣に行って「家内安全」を願う元日にあんな地震が起きてしまうのか?そこで「信仰が足りないからだ。もっとお布施をしなさい」となったらこれは霊感商法ですが、お守りやご祈祷なども含め、金額の多寡の違いだけで、初詣も豆まきも、あまり変わらないのではないでしょうか。

 このブログには何度も書きましたが、仏教は「おまじない」「占い」「ご祈祷」を排除した教えです。それは、いわゆる「上から目線」で「そんなことにすがっているからダメなんだ」という教えではなく、私たち人間には、そうした「超能力」のようなものにすがってしまう、惹(ひ)かれてしまう弱さ・愚かさが誰にもある、自分にもあることにまずは気づこうという、どこまでも自分と向き合えという厳しさのある教えです。

2月15日はお釈迦さまのご命日ですが、お釈迦さまの最期の教え『法灯明 自灯明』とは、

『暗闇の中で迷った時に、正しい方向へ進むには、法=仏法と、仏法を教わってきた自分を、灯りとして頼れ』という教えです。しかし私たちは仏法ではなく「得体は知れぬが何となく効き目のありそうな神様」のようなものを、自分を頼るのではなく「何か不思議な力がある」と称する占い師や拝み屋さんのようなものを頼りにして、裏切られ続けるわけです。

 最近、世間では『自分さえ良ければいい』という価値観がはびこってしまっているように感じます。それこそ鬼と言うものではないでしょうか?そして、その鬼の心は誰もが持っている思いなのではないでしょうか?

節分の「鬼は外 福は内」の掛け声に合わせて、改めて自分の内にある「鬼」と向き合ってみる、そんなご縁としていただければ有り難いことです。

仏教は、手を合わせさえすれば願いが叶う教えではなく、何かが「苦」を取り除いてくれるという夢から覚め、自分が「苦」を抱えたままきちんと生きていくという本当の夢を与えてくれる教えです。