明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。  

標題は浄土真宗の僧侶であり、明治期を代表する哲学者、清沢満之(きよさわまんし)の言葉です。この言葉を読んで「あれ、逆じゃないの?」と思われた方もいらっしゃるかも知れません。確かに日常よく耳にするのは、福沢諭吉翁が好んで使ったとされる「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の方でしょう。自分ができる精一杯のことをやって、その後の結果は天の意思=運命に委ねるという意味です。しかし、私たちはなかなかそんな清々しい思いにはなれず、良い結果が得られれば自分の手柄、思うような結果が出なければ運が悪かった、あるいは、悪いのは自分ではなく誰か・何かのせいだったと責任転嫁する、そんな生き方になってしまいかねません。 

清沢にとって『天命』とは、先月の法語にあった『他力』と言うこと、すなわち※2019年東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞の一節『「がんばったら報われる」と思えることそのものが、あなたがおかれた環境のおかげなのです』とまさに通ずるものがあるように思えます。この祝辞はまた『がんばって報われた結果として得た力を、自分の利益のためだけに使うのではなく、皆が「がんばったら報われる」世界を作るのに使ってください』と続きます。「自分中心の願いを捨て去り、私たちは願われて生きていて、他人と比べることなく、そのままで丸ごと無条件に肯定されている」という他力の思いと一致しているのです。常に誰かと競争し、勝つことばかりを追い求めるのではなく、損得・勝ち負けを超えて、互いの尊厳を尊重し合うところに『天命に安んじる』世界がある。そして、そこには結果を気にせず、安心して、自分のできることを惜しまず、尽くして行く『他力の生活は、最後まで努力せずには、いられない』=『人事を尽くす』生活があるのだということを示してくれています。

 

◎ ここからは、今年受験を迎える方、少し疲れてきてしまった方などに向けた「おまけ」 です。

 

最近はがんばれって言わないほうがいいなんて聞いたわ。
なんか気に入らないわね。

わたしは言うわよ。がんばりなさいよ。

死ぬ気でがんばりなさいよ。
血吐くまでがんばりなさいよ。

その先に見えてくるものがあるんだから。

※ リトル・ミィ(トーベ・ヤンソン作 ムーミン)             

 

近年、長時間残業などによる過労死、あるいはうつ病を患う方が増えてきた問題からか、「がんばれ」という言葉があまり良いものではないような扱いになってきています。

確かに、限界まで身も心も削って努力していらっしゃる方に、それ以上「がんばれ」と軽々しく声をかけることは、避けなければならないことでしょう。

がんばるのは「死ぬ気で」までです。もう、このままでは「本当に」死んじゃうと思ったら、遠慮なく休みましょう!すべてをほったらかして逃げましょう!

 

けれども、努力とは、そもそも何のためにするものなのでしょう。努力とは、期待する未来を現実にするために行うものであることは間違いありません。しかし、その結果が期待したものにならないと、努力した自分を責め、あきらめ、努力を強いた周囲を責め、努力そのものが何だったのかと、なりかねません。

では、期待した結果を得られなかった努力とは、意味の無いものなのでしょうか。
考えてみれば、私たちは生まれた瞬間から色々なことに出会い、出来ないもの、知らないものを新たに獲得して、世界を広げてきました。とすれば、努力とは今、自分が、これですべてだと思い込んでしまっている世界を、広げていくものなのではないでしょうか。

結果を期待して(下心見え見えで)するものではなく、いただいている場、そこにいることを許されている状況で、力を尽くしていくことが努力なのでしょう。

『天命に安んじて人事を尽くす』とは、自分の今まで見知ったつもりになっている世界に閉じこもってしまう私が、一つ一つのことにどんな結果が出ようとも、あきらめず、尽くしていくところに、世界がまた一つ開かれていくことを示しているのではないでしょうか。

いただいた環境、いただいた能力の中で、目の前のことを丁寧に努め、尽くしていくこと、それが「がんばり」です。そこに常に初事の世界が広がり続けていくのです。

がんばって、その先に何が見えてくるか、楽しんでみましょう。

 

※ 参考文献『平成31年度東京大学学部入学式 祝辞』