ロシアがウクライナに軍事力侵攻(侵略)するという暴挙に出ました。まさに愚行と言うほかありません。プーチン氏がいかに大義名分を言い張ろうが、お釈迦様の言葉を持ち出すまでもなく、武力によって人を傷つけ殺す行為は何も正当化されるものではありません。国益なる言葉に代表される『正義』など、単に一握りの人にとっての利益にしか過ぎず、逆の立場に立てば正反対のことが『正義』になります。力によって制する物などほんの一部であり、最も尊い人の心を力で屈服させるなど、できようはずもありません。 

こうした暴挙に直面すると、憲法を改正して軍隊を持つべきだとか、集団的自衛権やら果ては『核共有』発言まで、もっともらしく出てきますが、それは『力対力』の論理に組み込まれるだけで全く賛成できません。力によってもたらされるのは一時的な均衡であって、決して平和ではありません。

アフガニスタンで医療と灌漑事業で貢献し、最期は銃撃され命を落とした中村哲さんは「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に私が日本人だからと言う理由で命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で私たちを守ってくれているんです」と9条の現実性を強調していました。

暖かく安全な部屋にいる戦争をしたい人には、地下シェルターで爆発音に怯え涙を流す子供たちの姿も心に響かないのでしょうか。ロシア国内の人々を含め、各地で反戦の動きが出ていることを心強く、頼もしく感じます。私も声を上げ続けて行きます。

 一方で、身の回りで起きていることや人間関係の中でも「私は正しい」の思いが争いの根にあることは多くあります。「正しい」と思うだけなら良いのですが、その自分の正しさを絶対的なものとして押し付け、異なる意見を持つ人を愚かだと見下し、果てはその存在さえも否定しようとする。以前にもご紹介した「パターナリズム」(2019年12月の記事)や「パワハラ」「モラハラ」などがそれに相当するのでしょうが、そんな愚かさを私たち人間は抱えてしまっているのかも知れません。要はそんな自分の姿に気づくことができるかどうかなのでしょう。

私ども浄土真宗の宗祖親鸞聖人は正像末和讃(聖典P511)に

よしあしの文字もしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」(善し悪しという文字さえ知らない人は皆、真実の心を持っている。善悪の字を知っていて、自分は何でも分かっているという振りでいる者は、かえって大嘘の姿をしている。)

是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(是非も知らず正邪も分からない、少しの慈悲も持てないままの不実の身であるのに、名誉欲や利欲は持っていて、人から師としてあがめられたいと思う、何とも浅ましいのが私であります。)と、何と88歳で詠まれています。

そこまで自分を見つめ続けるお姿に頭が下がります。 果たして私はどうなのか。

我が身を見つめ、向き合い続ける。改めて有り難いご縁をいただきました。