前回の更新からあいてしまいましたが、高校時代から社会人(序盤戦)を書いていきたいと思います。
中学校入学当時から興味のあった放送部のある高校に入りたいという念願をかなえ、入学当時NHK主催の全国大会に17年連続出場していた高校へ行きました。
入学して間もなく、放送部に入部。学校生活はスムーズに始まりました。
身体の痛みは相変わらず続いていました。自宅から高校までは電車通学。最寄駅から高校までは遠かったですが、歩いて通学していました。歩行距離がのびればのびるほど足の痛みは酷くなっていきました。
身体の不調に付き合うだけの時間もないほど、学校生活は順調に進んでいきました。
そんな中の2011年3月11日。東日本大震災。
金曜日の6時間目、英語の授業中でした。あと30分ほどで授業が終了し部活へようやく行ける。そんなことを考えていました。
グラウンドに逃げた瞬間、体育館の屋根がものすごい音を立てながら落ち、ギリギリ体育館から体育の先生が飛び出してきたのが今でもたまによみがえります。
この震災で実家は床上浸水となり、16年間私の成長を見守った我が家は永遠に失うこととなりました。
意気消沈した私は、部活の顧問の先生や友達と一緒に原発の影響で福島からの避難者で作られた避難所へボランティアに行くようになりました。
これはのちに石巻や陸前高田などへのボランティア活動へと繋がっていくものとなりました。
この頃の私は心身ともにどん底で不眠になっていました。
体のだるさは取れることがなく、メンタル的にも自分一人では気持ちの収集がつけられないほど辛くなっていました。
環境の変化で家族みんなが余裕がなく、体調不良についてはとても言い出せるような状況ではありませんでした。
この震災によって、得たものもありました。それは、「番組制作」。
自分のしんどさはすべて番組に注ぎ込むことでしか17歳の私は生きることが出来ませんでした。
震災でバラバラになってしまった家族と本音を語ることを許されない苦しさや辛さをすべて番組にぶち当て、その思いが私を全国大会の舞台へと連れて行ってくれたのでした。
そして作品作りの中で地元ケーブルテレビ局のディレクターとのご縁をつなぐことが出来、夢だった全国大会出場も果たしたことで本気でテレビマンになろうと考え始めました。
その反面、私の身体でその過酷な労働環境に耐えられるのか不安でしかなく、毎日を悶々と生活していたのでした。
結局、高校3年間で体調不良は悪化し、身体の痛みと疲労感・倦怠感そして関節の脱臼が止まらないことを家族に伝えられないまま社会人となったのでした。
高卒でテレビ業界に行くことは至難の業であることを知り、社会人デビューは医療事務を選びました。
しかし、その職場はパワハラやセクハラが蔓延しておりそんな環境に愕然としていたさなかにケガをしました。
ストレッチャーと壁に右手親指を挟まれ、腱断裂をしてしまい利き手だったため休職を余儀なくされました。
休職期間中にさらに体調が不安定になり、セクハラのストレスで不眠となり、職場復帰はかなわず在籍期間半年で退職となりました。
そしてこの退職が私を夢の舞台へと連れて行ってくれることになりますが、この後の話はまた次回話していこうと思います。
高校時代という一番多感な時期に親に心を開くことのできなかったことは今でも大きな傷となっていることに最近気づきました。
震災は大きな影響を及ぼし、私たち家族はバラバラとなってしまいました。
誰に本当のことを話して良いのかと悩み、持って行き場のない苦しさや辛さを作品にぶち当てることしかできなかったあの頃の私を力いっぱい抱きしめてあげたい。「大丈夫、一人じゃないよ」って声をかけてあげたい。
謎の体調不良の正体がわかるのは、まだもう少し先の話。
読んで頂きありがとうございました。
皆さん一人一人が、自分に優しく出来ますように。