今日もこんな時間である。

現実逃避をするために、しこたまネット通販で買い込んだ映画達を昼から観続け、『未来世紀ブラジル』『遊星からの物体X』『その男、凶暴につき』を観終わった頃には、こんな時間になってしまった。

この時間になると、自分がやることは大抵決まっていて、駄文を書こうと腰を据えるか、泣きながら床に就くか、鍵垢で暴言を吐き散らすかの3択である。必然的に小腹の空き出す深夜3時前というのは、空腹度合いに伴って精神が荒む。本当に荒むのだ。気に食わないと思ったツイート(今ではポストとかほざくらしいが)を引用RT(鍵)し、まだ生焼けの揚げ足をとって満足し、また新たな気に食わないものを探す。Twitter(X)という媒体のアルゴリズム上、意見が良かれ悪かれ引用したツイートに似たものが更におすすめに表示されるようになっている。要は、無限暴言編である。竈門炭治郎が泡吹いて倒れるレベルのアルゴリズムだ。もう既に、10数件のツイートに鍵垢で暴言を吐いた。何をしているのだろう、と思う。歪んだ人格がどこで形成されたのか自分には一切分からない。しかし、ただひとつ朧気に分かることは、こんな行為を、鍵もかけず世界公開で行うアカウントは、とてつもなく肝が据わっている、ということである。もはやそれは肝が据わっているというよりは、タガが外れてしまっていると表現した方が正しいのかもしれない。そういう人間というのは、己と世間の乖離を許さない代わりに、現在の己と、過去の己に発生している乖離を、易々と許容する。人は変わりゆくものだ!というのが常套句であり、開き直ってなんぼ、ここまでのマインドに来られないお前らが悪い、呼んだ呼んでない関係なく、俺が来たくて来たのだ、世界は俺を中心に回っている!と、ご本人は言っていないつもりなのかもしれないが、傍から見れば先述の暴論は、ダラダラと全身から溢れ出している。そして、ほぼほぼの確率でよく食べよく眠りよく叫ぶ。憎まれっ子世に憚るとはこのことだ。


これが、画面の向こう、知らない人間が、知らない人間に向けて行われていることであれば、皆様きっと他人事でしょうが、誰かの他人事は誰かが当事者となってもがいておるのですよ。誰かが死んだ時間に誰かは生まれ、誰かの命日は誰かの誕生日なのです。話が逸れたので元に戻すが、こういった厄介な輩が周りの環境に、ご丁寧にも配置されている場合、どうすべきなのかを、今からお伝えいたしましょう。簡潔に。

ひたすら流すのです。受け流す。ここで反応してしまっては負けです。反応するくらいならマシなのだが、ここで本気を出して言い負かそうとスイッチをあなたが入れてしまうと、事の重大さは加速する。何しろそういった人種は、自分の非を認めない傾向にある。無自覚なる毒だ。裏を返せば、自らを他人よりいくらか上、もっと言えば崇高な存在だと自負している。恐ろしいことである。揚げ足をとって暴れ回り、周りが距離を取り出しているというのに、これは俺にひれ伏している!と勘違いし、そのまま孤独になると、離れていった人間に対して恨みつらみである。恐ろしい。なので流さないといけないのだ。流していれば、相手は自らの論を否定された気持ちにならず、むしろ上に立てた!と勘違いする。こうなってしまえばしめたものだ。そこからずっと流し続ければいい。心の中でいくら罵っていたとて、うんこうんこと呟いていたとて、聞こえないし知る由もないのだ。

以上は自分のトリセツである。要は頭が悪いのである。

無能の人だ。自分では、おそらく石すら売ることができないだろう。雨の中のバス停で、あのようなシチュエーションに陥ることはなく、ひたすら飛ばす原付や軽自動車が跳ねあげる汚らしい弱酸性雨を、体に浴びて、ずるずるになったジーンズを叩いて水気を飛ばしながら、蔑視線を刺されつつバスに乗るのだ。こんなものである。

今日もきっと外が白み出すのを確認する。

いつになれば虚無が襲いかかることのない夜が、横に来てくれるだろうか。夜が掴むでも読もうか。

いんそむにあ。