人から良く思われたいと思えば思うほど、

愛を受け取ることが難しくなる傾向があります。



なぜなら

 

人から良く思われたいと思うことによって、

 

自分の弱い所や至らぬ所を人に見せられなくなるからです。



それゆえ

 

いつも自分を着飾っていなければならず、

それが続けば、

 

段々人と居ることが億劫になっていくかもしれません。



 

一方愛を受け取るとは、

不完全さや

弱さや

至らなさがあろうが

ありのままの自分が、そのまま受け入れられる体験であると言えます。

 

 

 

こんなダメな自分でも、

 

こんな酷いことをしてしまう自分でも、

決して見捨てることなく温かく見守っていてくれる・・・

そんな人が側に居てくれたらどんな気持ちになるでしょう?

 

 

 

人は意識的にも無意識的にも

心のどこかで無条件の愛を求めているところがあります。

にもかかわらず、

いつの間にか自分に対する評価を

 

一生懸命求めるようになっているところがあります。

 

 

 

それはなぜかと言えば、

学校でも家庭でも数字やアルファベットで評価され、

高い評価が得られることが人間として価値があると

 

知らずのうちに子供の頃から条件づけられてきたからです。

 

 

 

人生振り返ってみれば、

何をやるにも点数や評価が付きまとっていなかったでしょうか?

そして今も、何かと評価が付きまとっていないでしょうか?

それとも今は、評価がいつの間にかお金にすり替わっていることはないでしょうか?

 

 

 

無条件に愛された体験が少ない人程、

あの人に良く思われたか、悪く思われたか、どう思われたか?

ということが、どうしても気になってしまう傾向があります。




それは無条件に愛された実感や下地が少ないがゆえに、

人からの評価=自分の存在価値

という風に解釈しがちになるからです。

 

 

 

そもそもその人が良いとか、悪いとか、

高学歴だとか、立派な職業に就いているとかは、

愛ではなく単なる評価や解釈であり、

それを見た人の価値観に過ぎないのです。

 

 

愛というのは、

この人どーしようもない人だけど、その不器用さの中に親しみを感じたり、

 

かわいらしさを感じたり、愛おしさ感じたりする中にあるのではないでしょうか。

 
 
人は決して完璧だから愛されるのではなく、

ありのままを感じてもらえるからこそ

そこに愛が生まれるのではないでしょうか。