なにも考えずに、まず下にある詩を聞いてみてください。

不況でリストラ、倒産などによって絶望を感じているあなたに。

金を返すことが出来ない、人に迷惑をかけたからけじめをつけたい。
自殺して保険金で返したい、いろいろ理由はあるでしょう。
何億の借金があるかしりませんが、あなたの命の価値は、あなたが数億だと思っているでしょうが、あなたを愛する家族にとっては、数兆円に値するのです。
じゅあ、どうしたらいいんだと掴みかかられるかもしれません。
答えは、簡単です。
放置することです。
ほおっておけば相手が勝手に破産申請するかもしれないでしょう。
家もとりあげられるかもしれません。
怒鳴られるかもしれません。
でも命を取られることはありません。
ヤクザに金を借りていたら取られると思うかもしれませんが、たかが金のために殺人という
死刑になる可能性があることは絶対にしません。
ただ生きていることに意味があるのかって?
いやただ生きていればいいのです。
水に溺れて、足掻くと沈みます。
ジッと両手を開いて身を任せば、必ず浮かんできます。
夜の闇は暗くて延々に感じます。だが必ず朝がやってくるのです。
あなたは、今死んだと思って生まれ変わったと思うのです。
すべてを忘れ未来しかないと思うのです。
金みたいなつまらないもので命を捨ててはいけません。
生きたくても生きれない人もいるのです。

病気が苦しくて命を絶ちたいあなたに。。
私は、病気がないので苦しさはわかりません。
私は、腎移植の運動を通して毎日が苦しくて十人に一人は、医者がしてはいけないという
水をがぶ飲みして心臓を止める人がいることを知りました。
私と一緒に活動しているレビューに書いている本の著者である林弁護士と語り合った時に
本当に死んだらどんなに楽になるだろうが、常に頭の片隅を掠めたといいます。
だが、彼は、画期的な医療を医師が自分の医師生命をかけて施してくれた所為で、その後
現在に至るまで12年間生きています。
世界中の研究者が、今も寝る暇も惜しんで研究を続けています。
あなたを救うためです。
その研究者が発明して、前日にあなたが自殺していたらどんなに悲しむでしょう。
可能性を信じて生きるのです。
なにも苦しみを知らないのに生意気なことを言ってすいません。

いじめで命を絶ちたいあなたに。
私も学生の時に転校を繰り返すので、よく虐められました。
無理して立ち向かうことはありません。
義務教育に退学はないのですから、行かなければいいのです。
いかなくても大学検定試験があって大学に進める道もあります。
この環境は変えられないと思い込まないようにしてください。

解決できないかもしれませんが、悩みも吐き出せば楽になるかもしれませんから、コメントに書いてくれれば、なにか未来に進むヒントになるかもしれません。




残された家族は、こんなに苦しむのです。
死ぬあなたは、天国で楽になれます。
だが生き残ったものは社会という地獄で苦しまなければならないのです。

あしなが育英会によると、昨年、在学中に何らかのトラブル
で学費の支払いなどが困難になったとして、奨学金を受けるこ
とになった高校生は四百七十人に上り、このうち四十七人が、
「親の自殺」を理由に挙げた。前年の九八年に、奨学金を受け
ることが決まった高校生は百四十三人だったが、自殺遺児は三
人にとどまっており、この一年間で、自殺遺児が急増したこと
を浮き彫りにしている。これ以前の自殺遺児の数はまとめてい
ないが、「極めて少なく、昨年からの急増が目立つ」と同会で
は話す。

 全国に一体どれだけの自殺遺児がいるかは分からない。この
ため、同会では昨年秋、厚生省人口動態統計をもとに推計調査
した。一昨年の自殺者は初めて三万人を超え、特に二十五~五
十九歳で自殺した男性は一万三千七百七十一人、女性は四千二
百九十四人を占めた。この数に、各年代別の子供の数を掛けて
推計すると、自殺遺児は一万千七百七十九人に上った。これは
交通遺児の約四倍にあたり、一日平均三十二人が自殺で親を亡
くしている計算だ。

 一方、同会が、遺児同士の交流を深めようと主催している合
宿などでは、こうした自殺遺児たちから深刻な悩みが寄せられ
ている。

 両足がまひして苦しんでいた父親(当時四十九歳)が、自宅
の庭で焼身自殺したという女子高校生は、「自分が『大学に行
きたい』と言ったため、(経済的に)父親を追い詰めてしまっ
たのかもしれない。母と二人で煙を上げている父の遺体に夢中
で水をかけた日のことはいつまでも目に焼きついている」と訴
えた。

 五十歳だった父親が、家族でハイキングに出かけた思い出の
森で首つり自殺をした男子生徒は、「父が経営する会社が倒産
し、生命保険で借金を返済するつもりだったようだが、借金は
それ以上に多く、母が不足分を少しずつ返している。僕は、自
殺という行為が恥ずかしくて、だれにも話せず、他人の目を気
にして生きてきた」と打ち明けた。

 また、奨学金を申し込んだ高校三年の女生徒の場合、心臓病
に悩んでいた父親が自殺。中学三年の弟が進学を断念、就職し
たという。

 これまで同会では、自殺遺児の奨学生の募集については積極
的にPRしてこなかったが、こうした調査結果を重く見て、昨
年秋から街頭でのPR活動や、願書で死亡原因の欄に「自殺」
の項目を記すなどして、積極的に自殺遺児の制度利用を呼び掛
けている。

 さらに今後は、自殺遺児の心の悩みをまとめた小冊子を、奨
学金を利用してきたOBらに配布して資金的な協力を求めた
り、都内に自殺遺児を対象にした交流施設を建設したりするこ
とも検討している。

 同会は「今後も自殺遺児は増えることが予想される。不況の
あおりで奨学金にあてる運用資金も不足しており、一人でも多
くの善意を期待したい」(小河光治・業務課長補佐)と話して
いる。連絡は同会(電話03・3221・0888)まで。


人生は捨てたものじゃないと話を残しておきます。

『心に残るとっておきの話・普及版第十二集』より
               
- おっちゃん -

  鈴木 正一  大分市  昭和26年生

  昭和37年。私が小学校4年生頃のことである。

父が友人の保証をしたのがきっかけで事業に失敗して、少なからぬ借金を抱えた。
それで親子6人、古い借家へ引っ越した。それは逃げたのではなく、今までの家も土地も借金のかたに取られたため、住んでいられなくなり、ほかの債権者に理由を言って移って行ったのであった。
それでも借金取りはいくらかでも回収しようと毎日のように取り立てに来ていた。

  とうとう父も万策尽き果て、少しでも返済しなければと色々な働き□を探して歩いていたようだが、何しろ借金の断わりやら詫びやら、また少しでも給料の多いところをと選んでいたので就職がおくれ、数カ月間仕事も出来ない状態で朝早くから夜遅くまで走り回っていたように思う。
  その間、母は遠方の親類から米や乾物を送ってもらい、私達4人の子を細々と食べさせていたのである。が、一日中、何も食べられない日も多く、私のすぐ上の兄などは、「おかあちゃん今日もご飯ないねんやろ」と言って、ころんと横に寝そべっていた。

  私は末っ子で、その辺の事情に疎かったのだろうが、「おかあちゃん、おなかすいた、おなかすいた」と言ってかなり母を困らせたようだ。そのたびに母は、「ごめんね、ごめんね」と泣きながら私を抱きしめていたことを思い出す。


  そんなある日の朝、やはり一人の借金取りが来た。
初めて見る顔で、父より少し若い感じのする男だったが、家の戸を思い切り開けるなり、「鈴木はおるか鈴木は!!」と大きな声でどなった。

母はびっくりして、「すみません、主人は今、仕事を探しに出かけて留守なんですが」と言うと、「ウソをつけ、ほんまは奥におるんとちゃうんか」と言いながら、私達が玄関に脱いだ靴の方を見たり、奥の方をのぞいたりしていたが、「留守やったらしょうないなあ、貸した50万と利息を貰いに来たんやけど、ほんなら奥さん、あんた、なんぼでもええから返して貰おか」とすごんで言う。

  母は、「本当にご迷惑かけてすみません。いくらかでもあればお渡ししますが本当にないんです。お米を買うお金もなく、この子らも、きのうからご飯も食べてないんです」と泣きながら言っていたのをはっきり覚えている。

  あの頃は毎日毎日が本当に空腹であった。私は大変恐ろしかったが、小さいながらも母の陰に隠れて、その人をじっとにらんでいたように思う。
  その人もチラチラと私の方を見ていたが、急に、「ほんだら、また来るわ」と案外あっさりと、今度は静かに戸を閉めて帰って行った。
  その頃の私は大人の事情など分からないので、借金取りは皆、父や母をいじめに来る悪い奴だと思っていた。しかし、ほかの借金取り達は皆、長い時間、父や母を苦しめていたように思うが、その人は帰るのが早かったので母もほっとしていたのではなかろうか。


その日の夕方のことである。
表の電柱の所に朝来たその人が立っていた。その人は私を見ると手招きして、「ボクちょっとおいで」と言う。私が恐る恐る近づいて行くと、「今朝は大きな声を出してごめんな、おかあちゃんを泣かしてしもて」と、私の頭をなでながら、「おっちゃん、今朝のこと、あやまりに来たんやけど、また行って、おかあちゃん、びっくりしたらあかんから、これ家に持って帰ったり」と言って大きな紙の袋に入った米を持たせてくれた。
  そして、その米の袋の中にパンを2つ入れてくれて、「ボクお腹すいたやろ、はよ持って帰って、おかあちゃんと一緒に食べ。おっちゃんは、もう二度とけえへんから心配せえへんように言うといてや。
おとうちゃんの仕事、はよ見付かったらええのになあ。ほんならバイバイ」と言って帰って行った。


 私は何か、こう怖いような、うれしいような、とにかくびっくりして、その重たい袋を家に持って入っていった。母は私を見るなり、「なんやそれ?」と言って、私の話を聞くなり、すぐ表に飛び出したが、もう、そのおっちゃんはいなかった。
  母は表に向かって長い間、手を合わせていた。私も物を貰ったからではなく、そのおっちゃんの言葉や母の今の態度から見て、あのおっちゃんは、朝は怖かったけれど本当はやさしい、ええおっちゃんなんやと思うようになっていた。

その時のパンのおいしかったこと、また、その日の晩、おかずこそ何もなかったけれど親子6人、久しぶりにお腹一杯、おにぎりを食べたあの味は今も忘れないし、今でもおにぎりを見ると、あの頃のことを思い出す。
 その日ぼろぼろに疲れて帰宅した父は、母からこの話を聞くなり、すぐ、あのおっちゃんの所へお礼に行くかどうか随分迷ったそうであるが、結局、一銭もなしで行くわけにもいかず、少しでもお金が出来てから行くことになったらしい。


それから数力月。
父の就職もやっと決まり給料を貰うようになり、母も働くようになり、やっと食べることだけはなんとか出来、残りはもちろん借金払いにまわしてと、そんな日々が続くようになった頃、ちょうど、あのおっちやんがお米とパンを恵んでくれた日から半年ほど後の頃だろうか。父がいくばくかのお金を封筒に入れながら母に、「利息にもなれへんけれど次は木下さんの所へ行ってくる」と言っている。

木下さんとは、あのおっちゃんのことである。母も一緒に行くと言うので二人で出かけていった。私もあのおっちやんには親切にしてもらったという思いがあるので、子供ながらに、いろいろと気になっていたように思う。

長い時間が過ぎた後、両親そろって帰ってきた。が、あのおっちゃんはもう前の所にはいないという。近所の人にも聞き、役所まで調べに行ったが分からなかったらしい。そうなると、ますます気になる。
  だが、それから本当に、あのおっちゃんは二度と来なかった。50万円といえば今でも大金であるが、当時の値打ちは今の何百万円に相当するだろうか。

父が事業に失敗して以来10何年、両親とも休むことなく、こつこつ働いて私達4人の子供を大きくしてくれた。
他の借金も全部払い、小さいながらもまた商売をはじめ、自分の家も持つまでになった。
今は私達4人の子供も皆、自立している。やっとお金にも心にも体にもゆとりが出来てきた頃、父は他界した。ちょうど10年前である。

私が成人する頃にふと気が付いたことなのであるが、いつ見ても仏壇の中に百万円の束ががひとつ入れてある。母に聞くと、木下さんに、いつどこで逢っても、借りた50万円と利息分50万円を返せるようにとのことなのだ。
百万円位ではもちろん全然足りないのであるが、とりあえずそうしているとのことであった。
  私は、泥棒でも入ったら大変だし、いくらかでも利息が付くのだから銀行にでも預けておくよう再三、言ったが、父は頑として聞かない。正直で一徹者の父である。

その父が亡くなる2年ほど前のことであるが、久しぶりに父と一緒に近くの銭湯に行った。そこでの出来事である。
5人ほどの日焼けした、たくましい体の男達の端っこで一人の老人が体を洗っていた。老人といってもやはり体はたくましかった。父と同年輩くらいだろうか、両肩に入れ墨を入れてはいるが年がいっているせいか、かなりかすんだ入れ墨である。若い時はさぞかし、きれいなものであったろう。
その入れ墨の人が湯船に入った。入れ墨を入れているのでやはり人目を引くのか、父もその老人を見ていた。老人は湯に浸りながら、「あーええ湯やなあ」と誰に言うともなく手で顔を洗っていた。その左手には小指がなかった。

父はまだずっと見ていたので、私は、ほかの若い男達もいることだし、何か因縁でもつけられては大変と思い、父の腕をそっとつついて、見るなというふうに、うながしたのだが、まだ父は見ていた。老人は自分が見られているとも知らず、一人で、「あーあー」と言いながら気持ちよさそうに湯に浸っている。

すると父は急に何を思ったのか、まだ体も洗っていないのに脱衣場まで出て体を拭き始めた。私も何事かと父の後を追い、「なんやねんな、おとうちゃん、まだ入ったばっかりやのに」と言うと父は、「間違いあらへん、木下さんや、あの入れ墨の人」と言い、私に、「お前、すぐ家に帰って、あの仏壇の百万円を持って来い」と言う。「わしはここで待ってるからすぐ行け」と急き立てた。

そのふろ屋から自宅までゆっくり歩いても2、3分の距離であったが、私も思いっきり走って、すぐ、ふろ屋まで戻ってきた。もちろん百万円を持ってである。
  父は私の顔を見ると、安心したような緊張したような顔をして、「表で待ってよか」と言って、さっさと出ていった。番台のおばちゃんもけげんな顔をしていた。表で待っていると間もなく母も小走りでかけつけてきた。ひとこと、お礼を言いたかったのであろう。
  父は相変わらず緊張した顔つきで口を真一文字にむすんで銭湯ののれんを見つめていた。しばらくして若い男達と一緒に老人が出てきた。皆、作業着を着た土方姿であるが、ふろあがりのさっぱりしたきれいな顔である。

 父はすぐ老人の所へ行き、「木下さんお久しぶりです、鈴木です。お宅にお世話になって長いことご迷惑をかけていた鈴木です。覚えていやはりますやろ」と言って、皆より少し離れたところへ行き、「本当に長いことすんまへんでした。あの時、借りた50万円と、利息には足りませんが、もう50万円の百万円お返ししますので、どうか受け取って下さい」と言うと、老人はやっと思い出したようで、「ああ鈴木はんかいな、ほんまに久しぶりやなあ、せやけど、そんな大昔のこと、もう忘れてしもうたし、第一、時効やがなあ、ははは、せやからその金、しもうとき」と言って受け取らなかった。

母もそばに来て、「木下さん、あの時は本当にありがとうございました、あの時貰ったお米で、どれだけ助かったか分かりませんし、この子もすごく喜んで、『おっちゃんが、おっちゃんが』と言って帰ってきました。どうか受け取って下さい」と言っている。

私も「おっちゃん」と喉まで出かかった言葉をかみころし、「あの時のパンとお米、本当にありがとうございました。今でもあの時のおいしかったことを忘れはしません」と礼を言った。

  そばで見ると、なるほど年老いてはいるが、まさにあの時のおっちゃんの顔だ。すると木下さんは、「ほうかいな、あの時のぼんが、こんなになってえ」と嬉しそうな顔をしてくれた。

私も33歳になっていた。父と木下さんはいろいろやりとりをしていたが、木下さんは頑として受け取らない。話の内容は、今このような土方仕事をしているが別に金に困ってのことではない。こう見えても、あの人夫達の親方であること、他にもまだ10数人の働き手がいて、ちょっとした土建会社の社長であること。今日は近くの現場の仕事が終わったので、皆を連れて一杯飲みに行くところだったとのことである。

結局、父がいくら言っても木下さんがその金を受け取ろうとしないので、母も最後にはすがるように、「お願いですから受け取って下さい」と、ついに泣いてしまった。
  すると木下さんは、「しゃあないなあ、奥さんもよう泣くお人や、よっしゃ分かった、ほな、こないしょう、この金は一旦返して貰うわ、ほんで鈴木はん、あんた、また商売始めてるそうやさかい、その祝いや、ほんのわしの気持ちやから受け取ってんか」と言って、無理やり父のポケットにつっこんだ。
  そして、「それやったら鈴木はんも納得いかんやろうから、これから、うちの奴ら連れて飲みに行って、めし食わすんやけど、それを鈴木はんのおごりでたのむわ。奥さんも、にいちゃんも一緒にどないや、あいつらはちょっとやかましいけど、皆ええ奴やから」と言う。

父も母もついに負けてしまった。異存のあるはずがない。

それ以来、木下さんとは年に4、5回行ったり来たりのつきあいである。そして、それは父のいない今も続いている。

     




歌詞:谷村有美 作曲:谷村有美 編曲:岡ナオキ
  起こるはずのないことが、現実になり ヒトは誰も 無力さを思い知る

何が正しいのか どこへ行けばいいのか 見失って引き返すことさえできない

愛するものを守るため 立ち上がり 歩き続けても 果てしない道程に 疲れ果て 力尽き 声も出ない...

笑顔になれない 悲しいときには どうか思い出してみて 生きてさえいれば 何かが生まれる

生きてさえいれば 報われる だから負けないで ひとりじゃないから

心無い言葉に 傷つけられて ヒトに会うのも 時に辛くなる

頭ごなしに 否定されたようで 頑張ったことでさえ 自信が持てない

信じることを貫いて 立ち向かい歩き続けても 果てしない道程に 優しさの本当の意味を知る...

笑顔になれない 泣きたいときでも どうか辛くならないで 生きてさえいれば 明日が来るから

生きてさえいれば 乗り越える だから負けないで ひとりじゃないから

ひたむきな夢も 不器用さも まるごと自分自身を受け止めればいい 冷え切った身体も心も そのまま...

笑顔になれない 悲しいときには どうか思い出してみて 生きてさえいれば 何かが生まれる

生きてさえいれば 報われる

lalalala... lalalala...

生きてさえいれば 明日が来るから 生きてさえいれば 乗り越える だから負けないで どんなときでも...

ひとりじゃないから