南三陸へ~志津川中学校
2011年5月、1週間、避難所になっていた志津川中学校の体育館でボランティアをしていました。
支援物資を仕分けしたり、避難している方とお話したり。
その志津川中学校にも行ってきました。
2011年5月はこんな景色だったところ。
今はこんな風に見えていました。
食事処の大将が言ってた通り、10mかさ上げしているのもあって、だいぶ景色が違っています。
学校自体は被害を受けていなかったので、当時から避難所になっていたし、今も外観はそのまま。
卒業校でもないのに、校舎を見て「懐かしい」と思うのが、なんだが不思議な感覚でした。
校庭。
2011年5月は、自衛隊の駐屯地にもなっていました。
奥の方では、仮設住宅の建設が始まったところでした(それまでは仮設住宅さえなかった時だった、ってことです)
今では、中学生が普通に使える校庭になり、仮設住宅から普通の住宅に移っているので仮設住宅は空っぽでした。
…ただ、仮設自体は残っていたので、
空っぽになったからと言ってすぐ取り壊しできるような余裕がないのかな、
直近まで住んでいたのかな、
などといろいろ考えました。
当時は支援物資が山のように積まれていた武道館。
山のように送られてくる支援物資は、被災地を想う気持ちの表れ…とは思うのですが、
赤ちゃんの少ない避難所に、大量の新生児用おむつ、
自衛隊が炊き出しをしてくれているのに、大量のカンパン、
避難所の人数の数倍はありそうな、大量の歯ブラシ、タオル、食料等々。
それらの仕分けに、公務員保育士さんたちが充てられていました。
「○○ちゃんのお葬式行けた?」
「その日は別のところがあって…。××さんのは?」
「そっちも行けなくて…」
小耳に挟んでしまって申し訳なかったけれど、そういう会話をしながら物資の仕分けをしていました。
もうひとつ。
生野菜を送ってくださる人や団体もいたんですが、自衛隊の方々も食料を持って来ていて、それで食事はまかなえていました。
保存食と違って、腐っていってしまうもの。
そっと、この写真の裏山に処分しに行ったこともありました。
「支援」って、「やればいい」ってものじゃない。
でも、「やらなくていい」ってものでもない。
難しいな…と感じたのを思い出しました。