今日のテーマは、前に上げた内容「伝え方と聞き方(自分の意見を述べるということ)」の番外編。この写真は、自分の高校生時代を思い出して載せた写真(長女の大学受験の時に解説用に、実に30年ぶりに解いた高校数学笑笑。おかしな点はご愛嬌で)。この頃は数学が大好きでした。成績が良かったかどうかは別だが。

 何回か触れているが、高校時代があったから今も生きていける。賢く程よく遊び人でおしゃれな友人たちに囲まれて、しかし今を生きながらも哲学や将来のビジョンも掲げられる素晴らしい仲間たち。大いに語り合った。みんなそれぞれ考えは違うがそれに対してさまざまなまた考えを言えるのだから、それはやはり自分でしっかり哲学を持っている証拠だし、新たな発見がいつもの日常にあるような素晴らしい3年間だった。

今はちょっと物足りない。大いに語りたくとも、意外に周りは面倒らしい笑笑。旦那もそう。私の話は面倒臭いらしい(よく結婚したよね、不思議)。そこに関しては大いに文句もある。私を言い負かすほどの哲学をもと合わせていないからだろうが、言い訳して、口をつぐんで逃げていく。高校の頃の仲間とどうしても比べてしまう。まあちょっと、個性的すぎるメンバーではあったが。この高校に入学してくる生徒も普通ではなかったかもしれない。

最近、というか常に思うが人って自分の意見や考え、思いを伝えるのは難しいと思っているのだろうか。それは烏滸がましいと思うのか。自分なんかが意見を言ったってっていう心理か?それとも単純に恥ずかしい?反対意見を言われるのが、それは間違ったことを指摘されてるように感じるのか?恥ずかしいと思った自分に向き合うのが辛い?それとも否定された時に言い返してしまう自分が許せない。負けず嫌いが出てしまう?討論なんかしたくない。その先に友人関係が壊れる気がして嫌か?

 自分を信頼して欲しいなら、自分を出すべきだ。辛いも悲しいも恥ずかしいも経験しないと、そういう相手と向き合う時、説得力がない。上辺だけの言葉しか言えない相手は話すとすぐにわかってしまう。

 なぜ言わないのかな。人と違う意見を言うことが、嫌われるファクターであると考えているのか?それは違うだろう。

 と、ずっと思っていた。

 ある時、職場で先輩と業務課題について話したことがあった。私は白黒はっきりしているとよく言われる。(最近も言われたが)。でも多いにグレーも存在すると思っているのだが、子供の時からそう思われがちだ。だからなのか、子供の時から面倒な案件を任されることが多かった。100人いれば100の意見がある。全部が罷り通るわけがない。その中でまとめ上げなければならなかったし、リーダーシップを発揮しなければならない。矛盾だらけだし、どう折り合いつけるのか。どうすれば最大の利益になるのか?今も同じような立場にいて、葛藤の日々だ。心が折れるよ。一方で好まれ一方で嫌われ、どう伝えていけばいいのか。導いていけばいいのか。。。

 「みんな〇〇(私の苗字)みたいに強くはないんだよ。だって〇〇は強いでしょ?」

先輩に言われた言葉。私が強く見えるのか?毎日悩み葛藤し、でも最大限、関わるみんなが喜びを得られるようにどれだけ苦しんでいると思っているのか。仮に私が強いとして、だとしても、私が強いから、折れないから、たとえはっきり意見や考えを言って、一部の人間に嫌われたって平気でしょ?ってことなんだろう。私からしたら、卑怯者でしかない。でもきっと本人は気づいていない。なぜなら自分本位でしか物事を捉えたことがないから。ただ自分を守りたかっただけな行為が相手を傷つける行為になると思ってない。でも彼女は周りからとても優しく信頼できると評判の先輩であった。

 

 

 一年位前、マコさんが「嫌われる勇気」みたいな自己啓発本を読んでいると何かで知った。彼のいいところは慢心しないところ。自分の欠点を認め、葛藤の毎日。だからこそ成長し、そして比江島慎という人物は日々加速度的に魅力が増している。私が彼の虜になる理由。きっと、見た目関係なく、根拠のない自信満々くんになったらもう応援しないだろうな。笑

 「嫌われる勇気=信頼されるためのもの」だと思う。前は「意見を言うこと」というテーマで進めたが、今回は「言わないこと」はどういうことなのかというテーマで書いてみた。「言わないでいること」が結果、何ももたらされるものがなく終わるのか、それとも誰かが代わりに「言う」ことで何かしらの功績はあるが言った本人にダメージが残ることになるのか、しかしまた「言わなくてもいいこと」があることも事実。どちらにせよ無責任にならぬよう。自分が考えを述べないことでどういうことが起こりうるのか、角度を変えて考えることも必要なんだ。

自分も常にあらゆる角度から物事を見れるように。