主を失った部屋、両親の悔恨|ママたちはエルメスを隠せない 第912話
 

 

氷川瑞希が家を飛び出した後、

残された両親に訪れたのは

あまりに重い沈黙だった。

瑞希の部屋に残された一枚の戸籍謄本。

それは十八年間、家族が守り続けてきた

平穏な日常が終焉を迎えた合図でもあった。

母・恵子の慟哭と、遅れて真実を知った

父・和也の絶望。いつかは来ると覚悟しながらも、

先送りにし続けた「報い」に

打ちひしがれる夫婦の、長く苦しい夜を描く。

 

 

前話はコチラ

 

 

 

 

 

残された一枚の書類

「瑞希ー! お風呂入っちゃいなさい」

夜の静寂が広がり始めた家の中に、

母・恵子の声が響く。しかし、返事はない。

いつもなら「はーい」と

元気な声が返ってくるか、

あるいは「あと五分だけ!」と

わがままを言う声が聞こえるはずだった。

 

恵子は少し不審に思い、

瑞希の部屋の前まで足を運んだ。

胸の奥で、嫌な予感がざわざわと波立っている。

 

「瑞希ー、寝ちゃったの? 開けるわよ」

 

そっとドアを開けた。

しかし、そこに愛娘の姿はなかった。 

綺麗に整頓されていたはずの部屋は、

どこか殺風景な印象を放っている。

あるはずの主を失った部屋の床に、

たった一枚、白く光る書類だけが虚しく残されていた。

 

恵子はその場に力なく座り込んだ。

指先が震え、床に落ちたその紙を拾い上げる。

 

戸籍抄本を見る母、恵子。瑞希に真実が分かったことを理解し泣き崩れる。

 

「いつかは……

 分かることだけど……瑞希……っ」

 

手にとった戸籍謄本を胸に抱きしめ、

恵子は声を殺して泣き崩れた。 

慌ててスマホを手に取り、

何度も瑞希に連絡を入れるが、

スピーカーからは無機質な

留守電の音声が流れるだけだ。

何度もメッセージを送っても、

一向に既読はつかない。

 

(あの子……

 きっと、圭太君のところね……)

 

行き先は容易に想像がついた。

今の瑞希にとって、

唯一心を許せる場所はそこしかない。

しかし、今の自分に追いかける

資格があるのだろうか。

恵子はただ、瑞希が使っていた

クッションを抱きしめ、

幼い頃からの思い出を

辿ることしかできなかった。

 

 

 

帰宅した父と、暗闇の真実

夜の8時を過ぎた頃、

玄関の開く音がして、父・和也が帰宅した。

 

「おーい! 誰もいないのか? 」

 

真っ暗な家の中に、和也の怪訝そうな声が響く。

リビングに入り、

明かりをつけた瞬間、和也は息を呑んだ。

 

ソファに力なく座り込み、

虚空を見つめている恵子の姿があったからだ。

 

「恵子! どうした!? 何かあったのか?」

 

和也が駆け寄るが、

恵子はただただ涙を流すばかりで

言葉にならない。その憔悴しきった表情に、

和也の背筋に冷たいものが走る。

 

「どうしたんだ、明かりもつけないで。

 言ってくんなきゃ、わかんないだろ? 

 瑞希は?帰ってるのか?」

 

急かす和也の手に、

恵子は震える指で例の戸籍を差し出した。

和也はそれを受け取ると、

そこに記された「養女」の文字と、

実母「氷川雅子」の名を一瞬で捉えた。

 

 

 

先送りにした代償

和也は大きく肩を落とし、

崩れるように恵子の隣に座り込んだ。

 

「……そうか。それが……

 今日だったのか……」

 

いつかは話さなければいけない。

 瑞希が成人する前には、

自分の口から。そう思いながら、

幸せな家族の時間が壊れることを恐れ、

ずっと先送りにしてきた。

瑞希がどれほどの衝撃を受け、

どれほどの絶望の中でこの家を出たのか。

想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。

 

帰宅した父、和也。恵子から戸籍抄本を渡され全てを理解する。

 

「俺たちが……臆病だったんだな」

 

和也の声は掠れていた。

瑞希がこれまで見せてきた笑顔、

仕事への情熱、

そして自分たちへ向けてくれた信頼。

それらすべてを「嘘」にしてしまったのは、

他ならぬ自分たちだという

自責の念が、重くのしかかる。

 

和也もまた、静かに、そして深く涙を流した。

 かつては笑い声が絶えなかったリビングには、

今、時計の針の音だけが無慈悲に響き続けていた。

 

外は冷たい雨が降り始めていた。 

逃げ場のない真実に直面した夫婦は、

ただ暗闇の中で、戻らぬ娘の気配を追い求めていた。

 

ーつづくー

 

*このお話はフィクションを含みます。

 

 

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【あとがき:第912話を振り返って】 

今回は、瑞希が去った後の

氷川家の様子を描きました。

これまで完璧な家族として

描かれてきた彼らの「綻び」が一気に露呈する、

非常に苦しいエピソードです。

恵子と和也が抱えていた葛藤は、

瑞希を愛していたからこその「隠蔽」でしたが、

それが結果として瑞希を深く傷つける

ことになってしまいました。

和也の「俺たちが臆病だった」という言葉に、

親としてのエゴと愛情が凝縮されています。

一方、圭太の元へ逃げた瑞希は

どう過ごしているのか。

物語は家族の解体と再生という、

新たな局面へと突入します。

 

 

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