慟哭の逃避行、聖域の告白|ママたちはエルメスを隠せない 第911話
戸籍謄本に記された過酷な事実に
打ちのめされた氷川瑞希は、
混乱のままに家を飛び出し、
唯一の心の拠り所である
恋人・圭太の元へと向かう。
自らのルーツを否定された衝撃と、
実母が伝説の女優・水川雅子である
という驚愕の真実。
すべてを失ったかのような絶望の中、
重いスーツケースを抱えて辿り着いた聖域で、
瑞希が圭太に漏らした魂の叫びを描く。
前話はコチラ
崩壊した日常、凍てつく指先
全身から力が抜け、
指先が氷のように冷たくなっていく。
瑞希は震える手でスマホを掴み、
無意識のうちに圭太へと連絡を入れていた。
「今、家……?」
「ああ、ちょうど帰ってきたところだけど。
……瑞希? 声が変だぞ、どうした」
圭太のその落ち着いた、
いつもと変わらぬ声を聞いた瞬間、
瑞希の心の中で張り詰めていた
何かが音を立てて決壊した。
(ここは、本当に私の居場所なの……?
ずっと信じていた場所が、
全部嘘だったなんて……もう、こにはいられない)
混乱した頭では、
冷静な判断など到底不可能だった。
瑞希はクローゼットから
スーツケースを引きずり出すと、
視界に入る衣類を無造作に、
ただひたすらに詰め込んだ。
自分が今、何をしているのか、
これからどこへ行こうと
しているのかさえ分からない。
ただ、この事実を知る前の
「氷川瑞希」にはもう二度と戻れない
ことだけが、残酷なほど明確に理解できた。
日暮れの逃亡と、唯一の拠り所
瑞希は誰にも見つからないよう、
足音を殺してそっと家を出た。
夕闇が迫る街を、重いスーツケースを引いて歩く。
本来ならばトップスターとしてのリスク、
週刊誌の目、事務所への影響を
真っ先に考えなければならない立場だ。
しかし今の瑞希には、
そんな社会的責任を案ずる余裕など
一ミリも残っていなかった。
ただ、この冷え切った体を
温めてくれる誰かの元へ、
自分を「一人の人間」として
知っている人の元へ行きたかった。
静かな高級住宅街に佇む、重厚なマンションの扉。
インターホンを鳴らし、電子錠が開く音が響く。
扉が開いた瞬間、瑞希は待っていた圭太の胸に、
吸い込まれるように飛び込んだ。
「……瑞希!?」
大きなスーツケースを引きずり、
顔を涙でぐちゃぐちゃにして
現れた彼女の姿に、
圭太は息を呑んだ。
瑞希は彼の服の胸元を、
爪が食い込むほど固く握りしめ、
言葉にならない声を上げて泣き崩れた。
静寂の中の告白:実母の名
圭太は何も聞かなかった。
ただ瑞希の体をしっかりと支え、
震える背中を何度も、
何度も静かにさすり続けた。
彼の体温が伝わってくるたび、
瑞希の目からはさらに涙が溢れ出した。
「……ごめん、なさい……っ。
いきなり……」
「どうした。何があったんだ。
……仕事か?
それとも、もっとやばいことか?」
瑞希は顔を上げず、
圭太の胸に顔を埋めたまま、
震える声で一気に言葉を吐き出した。
今、全部言ってしまわなければ、
二度と声が出なくなる気がしたからだ。
「私の両親……パパもママも、
実の両親じゃないんだって。
さっき戸籍を見て分かったの。
私は、養女だった……。
父親の欄は空白で、わからない。
でも、母親のところには……
水川雅子って書いてあったの」
一息に語られた告白の重さに、
圭太の体がわずかに強張るのを瑞希は感じた。
水川雅子。この国でその名を知らぬ者はいない、
伝説のままこの世を去った大女優。
それが自分の実母であるという事実は、
あまりにも非現実的で、耐え難い重圧だった。
聖域の慟哭、届かぬ救い
圭太は驚きを飲み込み、瑞希をさらに強く、
まるで壊れ物を扱うように優しく抱き寄せた。
「どうしていいか……分からないよ……っ。
あそこには、もう、いられない。
二人の顔を、どんな顔で
見ていいか分からないよ!」
泣きじゃくりながら訴える瑞希。
圭太はその細い肩を抱きしめたまま、
言葉を選ばずに、ただ沈黙を守った。
安易な慰めなど今の彼女には
届かないことを、彼は本能で理解していた。
その静かな、あまりに静かな一室で、
瑞希の慟哭だけが行き場を
失って響き続けていた。
自分は何者なのか。
これからどこへ向かえばいいのか。
窓の外では、何も知らない街の灯りが
冷たく輝いている。
瑞希の十八年間という歳月が、
一通の書類によって塗り替えられていく夜だった。
ーつづくー
*このお話はフィクションを含みます。
エルメス、オラン風サンダルです。
エルメスバッグの底鋲保護に
【あとがき:第911話を振り返って】
物語は最も重く、苦しい局面を迎えました。
瑞希が家を飛び出し、圭太の元へ駆け込むシーンは、
彼女がいかに極限状態にあるかを物語っています。
これまで「ガチ」で物事に向き合ってきた
瑞希だからこそ、事実を無視して生きることはできず、
真っ向からその絶望を受け止めてしまいました。
実母・水川雅子の名前が出た瞬間の圭太の強張り。
彼は瑞希をどう守っていくのか。
そして、残された氷川家の両親はどう動くのか。
次回、二人はどう夜をすごすのか。
シルバーアクセのお手入れに



