倉山満「帝国憲法の真実」第二部第一章

まとめと感想。
 

日米開戦までの流れ

日本は、支那事変から中国大陸各地で戦闘中。
アメリカは、日本と国民党政府の両方へ武器を売っていた。
フランクリン・ルーズベルトは、「隔離演説」で日本を「病原体」呼ばわり。
そして、米国から経済封鎖を受ける。
 
政府や日本軍は、支那事変からのゴタゴタが片付かないこともあり対米開戦は考えられなかった。
世論は、「鬼畜米英」一色。
とても和平は言い出せず。
 
東條英機陸相は即時対米開戦を主張、近衛文麿首相は逡巡。
及川古志郎海相は明確な発言をしなかったが、アメリカを仮想敵にしてきたため雰囲気に流されていく。
 
昭和16年9月6日 御前会議
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」
昭和帝は、対米開戦不可の意思を示された。
しかし、近衛首相は結論を先送りにするのみ。
 
その後、東條英機が首相になる。
しかし、アメリカは交渉を行わず和平は不可能だった。
 

敗戦、降伏へ

日本全土、帝都東京から地方都市まで空襲される。
「頼む鈴木」
鈴木貫太郎海相が首相になる。
 
7月ポツダム宣言を発する。
8月原爆投下。
中立国ソ連の裏切り。
ここで御前会議はポツダム宣言受諾の方針に流れる。
 
東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎外相。
ポツダム宣言に1条件追加=和平派
 
阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長。
ポツダム宣言に4条件追加=徹底抗戦派
 
その後、軍隊が武装解除。
アメリカ軍進駐した最初10日間だけで神奈川県は1336件の強姦事件が発生。
 
徹底抗戦派の主張は正論だが、被害拡大が考えられた。
御前会議は3対3、結論が出ず。
昭和天皇「外務大臣の意見を至当とする」
 
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」ことに決する。
 
和平派と徹底抗戦派が割れた条件とは?
和平派の1条件は、国体の護持。
つまり、皇室を中心とした日本。
 
帝国憲法の1条から4条が変わり憲法典の字面は変わるが、
広義の意味での「皇室を中心とした日本の国家体制」ならという考え。
 
大日本帝国憲法 御告文(訳)
これまでご先祖様より、宝物として日本国を無事に受け継いでまいりました
世の中の文化ぎ発達しましたので、ご先祖様の教えを明らかにするために皇室典範と帝国憲法のかたちで示し、子孫たちが守るべきところとし、臣民たちが従うべき道を広め、国家のかたちをますます強くし、国民の福祉を向上させることになるでしょう。
これすべてご先祖様以来の統治の規範を記したものにほかなりません。
ご先祖様のありがたさを祈り、わたくしが率先して現在と未来の国民のためにここで定めた典範と憲法を守ることを誓います。
お守りください。
 
要するに、国家と国民への祈り。
 

大日本帝国憲法の第一条から第四条まで

 
大日本帝国憲法第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
大日本帝国憲法第二条
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
大日本帝国憲法第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
大日本帝国憲法第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ此レヲ行フ
 
第一条
日本は天皇のもの。
第二条
皇室典範と一致。男系男子の継承を基本とする。
第三条
国家の最高儀礼をおこなう存在だから天皇を侮辱してはいけないし、権力を振るってはいけない。
第四条
天皇は国家元首。
「統治権を総攬」即ちすべての統治権を掌握しているが、「此ノ憲法ノ条規ニ依リテ此レヲ行フ」と実際の権力と行使は責任を持って臣下が行う。
 
第一条から第四条までの大きなポイントが「天皇の統治大権」と「天皇の不可侵」。
 

感想

大東亜戦争の開戦時とポツダム宣言を受け入れる一連の流れは、大日本帝国憲法の実際の権力行使と責任の所在が分かりやすい。
ポツダム宣言の受諾時には、目の前に差し迫った被害と戦後の立て直しが考えられた。
結果、ポツダム宣言を受諾し、広義の意味での国体護持を採用することになる。
不屈の精神と日本国、日本国民全体の努力によって立ち直ることを前提に、本来の日本国憲法を取り戻すことを決意したに違いない。
先人たちが耐え難きを耐えたことに敬意を払い、本来の日本のあるべき姿を我々国民が正確に理解し、憲法典においても刻み込むこと。
これで散っていった当時の旧帝国陸海軍将兵と日本国民が少しは浮かばれるのかも知れない。