前回記事「仏典を読む(その68)金剛般若経12」の続きです。
須菩提よ。修行者は生きとし生けるもののために、施しを与えなければならない。生き物という思いは、思いでないことに他ならない。如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものたちは実は生き物ではない。如来は真実と真理をありのままに誤りなく偽りなく語る者である。
須菩提よ。如来が悟り、示され、思い巡らされた法の中には、真理も無ければ虚妄もない。これらを例えて言うと眼があっても闇の中に入った人が何も見ないようなものである。物事の中に堕ちこんだ修行者はそのように見なすべきである。彼らは物事の中に堕ちこんで施しを与えるのだ。眼を持った人は夜が明けて太陽が昇った時に、様々な彩りを見ることができるように、物事の中に堕ちこまない求道者はそのように見なされるべきである。彼らは物事の中に堕ちこまないで施しを与えるのだ。
また、須菩提よ。女性も男性も、果てしない長い間、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げるとしても、この教えを聞いて信じて謗ることがないのであれば、さらに多くの計り知れない福徳を積むことになる。言うまでもなく、教えを書き写し、学び、記憶し、理解し、読誦し、他の人々に聞かせるのであれば、尚更のことである。
【メモ】
金剛般若経では「施し」=「布施」の重要性が繰り返し説かれます。「世界は夢幻のようなもので実体が無い」と説く空思想の経典である般若経において、なぜここまで布施が強調されるかというと、空思想を体得するためには執着を捨てる必要があり、所有物や自分自身を積極的に手放すという布施が重要となるからです。布施といえば、何となく、他人のためになる「善いこと」のイメージがあります。それは間違いではありませんが、実のところ、布施は、空思想を体得するため、執着を手放すための悟りに向けた実践であり、大乗仏教の6つ修行徳目「六波羅蜜」でも筆頭として挙げられています。
この「布施」ですが、①財施=財物や食べ物、衣類などを与えること ②法施=教えを与えて正しい道に導くこと ③無畏施=畏れを取り除いて安心させること の三種類があり、これらを「三施」と言い、金剛般若経に限らず、どの経典においても、②の法施が最重要とされます。そして、布施の実践にあたっては新たな執着の発生を避けるために「見返りを求めないこと」が大切とされます。そのためには、空思想を意識した布施を行う必要があり、今回のパートではその旨が説かれています。布施について、嫌な人や浪費癖のある人に布施を行っていいのか、このあたりは改めて記事にしたいと思います。
次回に続きます。