前回記事「浄土三部経の私的注目点(その8)観想行」の続きです。

 次に阿弥陀仏の真のお姿と光明を思い描くがよい。無量寿仏のお身体は60万億那由他恒河沙由旬である。眉間の白毫の大きさは須弥山を五つ合わせたほどであり、頭の後ろから放たれる円光の広さは百億の三千大世界を合わせたほどである。その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおいでになる。これらを詳しく説くことはとてもできない。ただ想いを巡らせて心の目を開いて明らかに見るがよい。このように想い描くことは様々な世界の仏がたと、そのお心を全て見ることになり、これを「念仏三昧」という。この観が成就すれば、来世には仏がたの前に生まれ、真理を悟ることができるだろう

 

 観無量寿経によると、観想行で阿弥陀仏の姿を正しく思い描けるようになること、いわゆる「観仏」によって、来世に極楽浄土に生まれ変わることができると記されています。

 この観仏について、天台宗では「解入相応」(げにゅうそうおう)といい、阿弥陀仏が実際に目の前に降臨したのではなく、自分の心が作り出したもの、あるいは、心に映っているものであると考えるようで、阿弥陀仏と一体となることを体感するために実践されているのだそうです。

 

 

 写真は、比叡山延暦寺の「にない堂」と呼ばれる阿弥陀堂で、こちらでは「常行三昧」という古くからの行が行われています。

 

 常行三昧は、天台宗の開祖である智顗(ちぎ)の論書「摩訶止観」に記される精神統一の方法のことであり、堂内にある阿弥陀仏像の周りを90日間不眠で歩き続けて、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱え続ける行です。この行を実践し、精神統一が極まった行者は阿弥陀仏を実際に見ることができるそうで、摩訶止観には、「仏を見んと欲すればすなわち仏を見、見ればすなわち問い、問えばすなわち報える」と記されています。

 

 この行ですが、90日間堂内を歩き続けることによって蓄積される疲労は当然のことながら、どうしようもない眠気との闘いになるそうで、歩きながら眠っては倒れて頭を打ち付けて目が覚めて、また歩き出すという繰り返しになり、あまりの過酷さに江戸時代に一度封印されたと伝わります。

 過酷だからといって、阿弥陀仏を見ることができる貴重な行を封印するとはいかがなものか…と思いますが、摩訶止観には常行三昧のほか「常座三昧」という「90日間座り続ける」という修行法も記されており、さらに、たどり着く境地は同じということなので「常行三昧」は不要だという判断があったのだそうです。

 

 しかし、比叡山千日回峰行を二度満行したという、かの有名な酒井雄哉大阿闍梨がこの行を復活させてから、現在では比叡山延暦寺のエリート僧の通るべき修行として実践され続けているようです。


    なお、2019年にNHKで放送された「ブラタモリ」で、タモリ氏と林田アナが常行三昧のプチ体験をしていましたので、興味がある方は視聴してみてはどうでしょうか。



 次回は、酒井雄哉阿闍梨が見たという阿弥陀仏について紹介します。