前回記事「浄土三部経の私的注目点(その3)時代の要請」の続きです。

 

 第九条 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 「いきなり何なんだ」と思うでしょうけど、皆さんご存じの日本国憲法第9条です。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とか言っているけど、自衛隊はどう見ても戦力だろ…と。これに対して、日本政府は「自衛権に基づく自衛のための必要最小限の実力は憲法が禁じた戦力にはあたらない」などと言います。憲法が改正できないから、このように何だかよくわからない無理な解釈で対応するしかないのです。

 

 なぜこんな話をしたかというと、仏教の経典についても現実や理想にそぐわない状況となった場合には、解釈で対応する必要が出てきて、これが日本国憲法と似ていると思うからです。そもそも、仏教経典とは、お釈迦様を始めとする仏様たちの言行録ですので(建前としては)内容に間違いがあるわけがありません。そのため、もし経典の中に理想や現実と乖離した記述があれば、仏弟子たちはその解釈に大変苦労することになります。

 

 無量寿経(下巻)では以下のように記されています。

 阿弥陀仏の名を聞き、信じて喜び、わずか一回でも念じて心から極楽浄土に往生したいと願う人々は、全員が往生することができる。そして、往生後には、将来的に悟りを開いて仏になることが確定する。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る者だけは除かれる

【無量寿経(下巻)】

 念仏を称えれば、誰でも極楽浄土に生まれ変われることができると記されていますが、実は但し書きがあって、「五逆の罪を犯した者は除かれる」とあります。五逆とは、「父を殺すこと」「母を殺すこと」「聖者を殺すこと」「教団を破壊すること」「仏の身体を傷つけること」ですので、親を殺した人は、念仏を称えても極楽浄土に生まれ変われないと明記されているということになります。

 

 しかし、他方で、観無量寿経には以下のように記されています。

 最も重い五逆や十悪の罪を犯し、その他様々な悪行を行う者がいる。この者が命を終えようとする時、善智識は、さらに「もし仏を念じられなければ、ただ口に阿弥陀仏の名を称えなさい」と勧める。こうしてこの者が、「南無阿弥陀仏」と10回唱えると、八十億劫の罪が除かれる

【観無量寿経】

 こちらでは、親を殺した人でも極楽浄土に生まれ変わることができると記されており、先に紹介した無量寿経の記述と明らかに矛盾しています。

 

 実のところ、この矛盾については、「逆謗除取」(ぎゃくほうじょしゅ)の問題として、多くの仏教者によって様々な解釈が提示されてきました。その中で、中国唐時代に活躍した浄土教の第一人者である善導大師は「人々が親を殺さないよう、抑止効果を狙った仏の発言である」といった旨の解釈をしており、善導大師を敬愛する法然上人もその解釈を採用していたりします。

 

 …何だか釈然としない内容です。そもそも、無量寿経よりも古い時代に成立した経典や論書において、親殺しは最大の重罪の一つであると一貫して記されており、それが古くから仏教の「常識」であったことが想像できるわけで、無量寿経の撰述者は、その価値観に基づき、「親を殺す人だけは、極楽浄土に生まれ変われない」とシンプルに思っていたのかもしれません。

 

 ここまでで何が言いたいかというと、仏教とは、そもそもお釈迦様が体系的な教義を説かなかったことから、論師たちによって論理的整合性を追求することが繰り返されてきた歴史であったということです。つまり、今や確立されているように見える浄土教の思想も、大本となる経典を読んでみると実は全く意外なことが書かれていたりします。

    法然上人や親鸞聖人のように劇的な仏道改革を行った場合には特に、経典を極めてアクロバティックに解釈していることがありますので、もしその思想に興味を持ったのであれば、経典の内容を確認することは重要でしょう。解釈とは時代的な要請に基づいてなされることが多いのです。

 

 次回に続きます。