前回「仏教と性欲(その4)不浄の漏失」の続きです。

 仏教において、セックスやオナニーなどの性行為を禁じるのは「不淫戒」といいますが、そもそも、仏教において性行為が禁じられている理由は何でしょうか。基本的なところをおさらいしておくと、仏教では「悟りを開くこと」が至高の目標であり、悟りは「三学」(さんがく)を修めることで実現できるとされています。三学とは、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三つのことをいい、その内容は以下のとおりです。

 

①「戒」=仏の定めたルールを遵守することで修行に最適な環境ができる

②「定」=その上で瞑想を行うと精神集中の境地に入ることができる

③「慧」=その結果として正しい考え方や物の見方ができるようになる

 

 不淫戒は、①の「戒」であり、修行に適した環境を確保するための必要なルールだというわけです。言うまでもなく、セックスやオナニーばかりに夢中になっていたら仏道修行どころではなくなります。特に、性行為はあまりにも強い快感をもたらすことから、仏を求める心の障害となりますし、他の欲求に増して強い中毒性があります。仏教はこれに対して極めて高いレベルで警戒しているのです。

 経典を読むと、性行為は、常に修行者を堕落させるものとして登場します。それだけ仏教から修行者を奪う「実績」があったのでしょう。これを想像させるパーリ語経典「ジャータカ」から以下の説話を紹介します。これは面白いです。

 

 

「ナリニカージャータカ」 

 

 釈尊は、別れた妻のことが忘れられず、出家を躊躇する修行者に対し、「お前は過去世においても、その妻に惑わされていた」と仰られ、次のとおり語られた。

修行者イシシンガは、ヒマラヤ山中で苦行を行っていた。これを見た帝釈天はいずれ自分の地位を脅かされるのを恐れたので、カーシ国の王女ナリニカーを派遣してイシシンガの修行を妨害することにした。

王女は苦行者に変装し、イシシンガに近づいて行った。女を一度も見たことのないイシシンガは、王女を男の苦行者として自分の庵に入れてもてなした。王女が座った時、衣が解けて裸体が露出した。イシシンガは、王女の女性器を見ると傷であると思い、「その傷はどうしたのか。お前の男性器は穴の中にあるのか」と質問した。

これに対し、王女は、「熊が追いかけてきて、私を倒して男性器を嚙み切ったのです」と答えると、イシシンガは「お前の傷は深くて赤みを帯び、腐っているようで、ひどい匂いがする。薬で治療してあげよう」と述べた。

すると、王女は「薬での治療は効きません。あなたのもっている柔らかいもので、この痛みを癒してください。私が快くなるまで」と懇願した。そこでイシシンガは傷を癒してやろうとして、①戒を破って2,3回性交して、禅定を捨ててしまった

王女が帰った後、イシシンガは、父親の仙人が戻ると事の次第を全て説明した。「その傷はよく癒着し、周りは全て柔らかでした。大きくて美しく、花のように輝いていました。彼は私の上にのしかかり、股を開いて腰で押しました。私は気持ちよくなりました。彼も私は気持ちがいいと言いました」

そして、イシシンガは、「父上、彼がどこに住んでいるのか知っているのであれば、②私をそこに行かせてください。さもないと死んでしまいます」と嘆き悲しんだ。

そこで、父親は「わが子よ。鬼霊どもは様々な姿で人間界を徘徊する。智慧ある人は付き合ってはいけない」と言ってイシシンガをいさめた。イシシンガは、父に許しを請い、修行を再開して再び禅定を得た。

 釈尊は、以上を語られた上で、「イシシンガは過去世のお前であり、王女は過去世のお前の妻であり、父親の仙人は過去世の私であった」と仰せになった。

 

 

以上、中村元「仏教経典散策」収録文を奈良が要約しました。

 

 

 

 

 ジャータカとは、古代インドの伝承をベースにしてお釈迦様や菩薩の過去世を説いた経典です。その中の王女ナリニカーのお話については、もはや官能小説です。この内容をお釈迦様が語っているというのがまた面白い。お釈迦様は説法のプロですから、臨場感抜群の語り口で、聞き手はそれを興奮しながら聞いていたのかもしれません。いやいや、説法で性欲を喚起しちゃ駄目だろう…とか思うのですが(笑)。

 

 まあ、冗談はこれくらいにして、下線部①では、「2,3回セックスをして禅定という精神統一の穏やかな心境を失った」とあり、性行為が仏教における大切な境地を破壊したことが記されており、下線部②では、王女とのセックスを体験した後に「また王女と会えなければ、我慢できず死んでしまう」とセックスの中毒性について記されています。

 仏教が性行為を戒める理由がこの経典の内容からも良く分かります。

 

 次回に続きます。エロネタはまだまだ尽きません(笑)