前回「仏教と性欲(その3)有余涅槃」の続きです。

 前回は、悟りを開いた後も肉体がある限りは快や不快を避けられないという「有余涅槃」についてのお話をしました。お釈迦様でも重病を患えば身体的にキツイ…それをうかがわせる内容が古い経典に記されています。この有余涅槃ですが「悟りを開いた阿羅漢でも夢精をするのか」という疑問に対する回答にならないでしょうか。

 

 当然のことながら、煩悩の炎が吹き消えているとされる阿羅漢が性を刺激されて射精することはありえないでしょう。しかしながら、夢精については、性交や自慰による射精とは明らかに異なるように思えます。我々は、精液の源を性的欲求にあると考え、エロ・不浄の象徴みたいに捉える傾向にありますが、そもそも、精液なるものは、人間の生理現象として日々生産されるものであり、体調や条件によって溢れ出すことも想定されるわけです。

 「夢精」について、ウィキペディアには以下のとおり説明があります。

 

 射精を司る精管膨大部の働きは、覚醒中には交感神経の働きによって抑制されているが、睡眠中は副交感神経が優位となることで抑制作用が弱まり、覚醒中よりも弱い刺激で射精に至ることが知られている。


精液の過剰ストックによるもの
 精液は日々絶え間なく生産されており、精嚢への精液のストックはおよそ3日で一杯となる。蓄積過剰となった古い精液のうち、タンパク質として体内に吸収されなかった精液が、新しい精液に押し出されて溢れ出る生理的機序によって夢精が起こる。
 この場合、射精反射がまず先に起こり、これに伴って脳内で即座に性的な事柄が連想されることで性夢となるが、性夢は射精によって後付けで連想したものであり、夢精の成立にとって必須のものではない

 

 もはや仏教ブログなのか何なのかよくわからなくなっていますが(笑)、下線部を読む限りでは、「夢精の成立によってエロい夢は必要条件ではない」とあります。ということは、夢精は、煩悩の発露の結果というよりは、やはり生理現象として捉えることもできるかもしれません。

 

 「いやいや、心身を深く洞察すると精液の源はやはり煩悩だと分かるんだよ」などと阿羅漢が発言しているとか、阿羅漢の精嚢には精液が一切存在しない…などの事実が判明すれば、夢精は煩悩が源泉であると信じざるを得ないのですけど、やはり、釈迦様が食中毒を患って血の混ざった下痢をしたという事実を考えれば、同様に、夢精も同じ有余涅槃という範囲内で考えることができるのではないか…などと、個人的には考えています。

 ともすれば、大天による「阿羅漢でも夢精することがある」という、一見とんでもない、そして下世話で冒涜的な発言も、一考の余地があると言えるのではないでしょうか。

 

 次回に続きます。