前回記事「仏典を読む(その28)観無量寿経8」の続きです。

 極楽浄土に往生するための観想行について、いよいよ終盤となります。

 

【観無量寿経】9

⑰ 観音菩薩と勢至菩薩を思い描いたら、次は自分が往生するという想いを起こすがよい。

 まず、極楽浄土に生まれて蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花の中に包まれている姿を想像し、そしてその花が開く様子を想像する。さらに、自分の目が開くことを思い描くがよい。

 そして、仏や菩薩が大空一面に満ちている様子を見るのである。水の流れも鳥のさえずりも、樹々のさざめきも全て仏の教えを説き述べている。この観を終えても、その有様をよく心にとどめて忘れないようにする。このように思い描くのを普観想といい、第十二の観と名付ける。

 阿弥陀仏は数限りない化身となって現れ、観音菩薩と勢至菩薩と共にこの観を修める者のもとにおいでになる。

 釈尊は続いて阿難とイダイケ王妃に仰せになった。

⑱ 心から極楽浄土に往生したいと思うのであれば、まず、池の上に485センチ程度の阿弥陀仏の像がおいでになると思い描くがよい。先に説いたように、阿弥陀仏の大きさは計り知れず、人間には到底思い及ぶものではない。しかし、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった頃に立てた請願の力によって、よく心をこらして思い描くのであれば、必ず阿弥陀仏の真の姿を見ることができるのである。阿弥陀仏は神通力によって、全ての世界で自由自在に様々な姿を現す。時には、大空一面に満ち渡るほどの大きさに、時には240センチ程度の小さな姿となって現すのである。

 観音菩薩と勢至菩薩は同じ姿をしているが、お二人の頭の特徴を見ることによって区別することができる。お二人は阿弥陀仏を助けて全ての人々をお導きになる。このように思い描くことを雑想観といい、第十三の観と名付ける。

 

【メモ】

 極楽浄土に往生した自分の姿を想像することで、観無量寿経の観想行は仕上げとなります。

 ⑰について、蓮の中で瞑想する自分の姿を想像した上で、その後に目を開いて、これまで学んだ極楽浄土の有様を想像するのだそうです。阿弥陀経や無量寿経、そして、観無量寿経で何度も繰り返し、極楽浄土の有様についての説明を受けたのは、この最後の仕上げのためだった…と言えるのかもしれません。

 ⑱については、お釈迦様が「宇宙よりデカイ阿弥陀仏を思い描くのは大変だから、一丈六尺(485センチ)くらいの像で思い描きなさい」などとおっしゃっています。これまで、想像不可能な宇宙規模のデカい宮殿や樹々、無数の仏たちを思い描くように言われてきましたが、結局のところ、終盤になってから、「人間の想像力で何とかなるレベルまで落とした上でイメージしてOK」などとおっしゃっている…。お釈迦様もお人が悪い(笑)。

 それよりも、この一丈六尺(485センチ)ですが、お釈迦様自身の身長とされており、「丈六仏」といって我が国における仏像のサイズの基準となっていることに注目です。つまり、阿弥陀仏を観想するという時は、この丈六仏を参拝して目に焼き付ければ効果的ということでしょうか。そんなわけで、実際に我が国の各地において、丈六の阿弥陀仏像がお祀りされていたりします。

 
 次回は、これまで説かれた13の観想行を一度まとめて紹介したいと思います。
 次回に続きます。