仏説無量寿経(上巻)の要約全文についてはこちらです。

 

 

仏説無量寿経(下巻) 要約全文

 

 

 釈尊が阿難に仰せになった。

 阿弥陀仏の名を聞き、信じて喜び、わずか一回でも念じて心から極楽浄土に往生(生まれかわること)したいと願う人々は、全員が往生することができる。そして、往生後には、将来的に、悟りを開いて仏になることが確定する。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る者だけは除かれる。

 極楽浄土に往生したいと願う者たちは、上輩・中輩・下輩の3種類に分けられる。

 上輩の者については、悟りを求める心を起こして、出家して修行者となり、一心に阿弥陀仏を念じ、様々な功徳を積んで、極楽浄土に往生したいと願う。往生後は、蓮の花から生まれて優れた智慧と神通力を持つ身となり、将来的に悟りを開き、仏になることが確定する。

 中輩の者については、上輩のように修行者(僧侶)としての功徳を積むことができないとしても、悟りを求める心を起こし、一心に阿弥陀仏を念じ、八斎戒(在家の戒)を守り、善行(堂や塔の建設、仏像の製作、修行者への食べ物の提供、献花や焼香の供養など)を行う。これらの者の死ぬ間際には、多くの聖者たちを連れた阿弥陀仏が現れる。往生後は、将来的に悟りを開くことが確定し、上輩に次ぐ功徳や智慧を得る。

 小輩の者については、功徳を積むことができないとしても、悟りを求める心を起こし、わずか十回ほどでも阿弥陀仏を念じて極楽浄土に往生したいと願う。奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いを持たず、わずか一回でも阿弥陀仏を念じて極楽浄土に往生したいと願うのであれば、死ぬ間際に、夢に見るかのように阿弥陀仏を仰ぎ見る。往生後は、中輩に次ぐ功徳や智慧を得ることができる。

 阿弥陀仏の大いなる徳はこの上なく優れており、全ての世界にいる仏たちは、阿弥陀仏を称賛している。そのため、世界中の菩薩たちは皆、阿弥陀仏のそばに訪れて教えを聞く。菩薩たちは、礼儀正しく伏して阿弥陀仏を礼拝する。阿弥陀仏は、にっこりと微笑み、口から無数の光を放って、広く全ての国を照らす。これに対して観世音菩薩は服装を正して問う。「御仏が微笑まれたのは、どのようなお心からでしょうか。そのお心をお説き下さい」と。

 阿弥陀仏は雷鳴が轟くように、優れた声で以下のように答えた。

 「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい。私は様々な国から来た菩薩の願をすべて知っている。菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願のとおりに必ず仏になることができる。すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまな素晴らしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができる。すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道を究め尽くし、様々な功徳を積んで、必ず仏になることができる。すべてみな、その本性は空・無我であると見通しながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができる」

 仏の方々は、自分の国の菩薩たちに次のように述べる。

「阿弥陀仏の教えを聞き、求めて修行し、速やかに清らかな世界を得るがよい。極楽浄土に行けば、すぐさま神通力を得て、仏になることが約束され、必ず悟りを得ることができる。菩薩たちは優れた願を立て、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、広く全ての者を救いたいと思い、その名を全ての世界にあらわしたいと望む。功徳をつんでいない人々は阿弥陀仏の教えを聞くことができない。清らかに戒を守った者こそが正しい教えを聞くことができる。おごり高ぶり、誤った考えを持ち、怠け心のある人々は、教えを信じることはできない」

 極楽浄土の声聞たちが放つ光と比べ、菩薩たちが放つ光の方が遥かに明るく世界を照らす。菩薩の中でも、観音菩薩と勢至菩薩の二人は特に優れていて、その神々しい光は広く世界中を照らす。二人は、かつて、この娑婆世界で菩薩として修行を積み、命を終えた後、極楽浄土に生まれ変わったのである。   

 極楽浄土の菩薩たちは、優れた智慧と神通力を備え、仏になるまで二度と迷いの世界に戻ることはないが、私(釈迦)がこの国に現れたように、菩薩自身が望むのであれば、他の悪い世界に生まれ、その世界の人々と同じ姿を現すことも自由である。

 極楽浄土の菩薩たちは、相手に対して常に正しい法を説き、内容を誤ることはない。また、極楽浄土を自分のものであると思わず、執着する心がない。菩薩たちは自分自身にとらわれることがなく自由自在であり、人と争うこともなく、怠けることもなく、大いなる慈悲をもって、あらゆる者に利益を与えようとする。悟りを得るための7つの修行(七菩提分)を修行し、平等の真理に到達しており、全てが空であると悟って大乗の教えを極め、その智慧をもって人々に法を説くのである。

 極楽浄土の菩薩たちは、ひたすら教えを願い求めて飽きることがない。いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。智慧の光を輝かせて愚かさの闇を除き、志が中途になることはない。人々のために指導者となり、世を照らす灯となり、多くの人々を心安らかにするのである。菩薩たちは、過去の善行の力、善智識による教導の力、意思・請願・方便・聞法の力など、様々な力を備えている。

 極楽浄土の菩薩たちは、数限りない仏たちを供養し、他方、仏たちも皆、菩薩たちのことを称賛している。菩薩たちは、六波羅蜜の行を究め、精神統一によって空・無想・無願の境地に至り、声聞や縁覚の位を遥かに超えている。今、私(釈迦)は、菩薩についてほんの一部分を説いたが、詳細については長い年月をかけても説き尽くすことができない。

 

 釈尊が弥勒菩薩や天人などに仰せになった。

 極楽浄土とそこに住む菩薩と声聞が優れているのはこれまで述べたとおりである。お前たちは努め励んで極楽浄土に生まれ変わりたいと願うがよい。そうすれば極楽浄土に往生して無上の悟りを開くことができるだろう。

 ところが、世間の人々は、本当に浅はかであり、優先順位の低いことばかりに心を奪われている。そのため、せっかく極楽浄土に往生できる機会を与えられているのにも関わらず、実際に極楽浄土に往生できる人は少ない。

 老若男女を問わず、貧しい者も富める者も、みな財産のことに悩んでいる。田があれば田に悩み、田がなければ田に悩む。家があれば家に悩み、家がなければ家に悩む。つまり、財産があればそれを失うことに悩み、財産がなければそれを欲して悩む。そうして、人々は、ただ苦しむばかりの痛ましい生活を続けている。

 また、夫婦や兄弟と死別して残された者は、長い年月を経ても相手への想いが止まず、仏の教えを聞かせても心が開かれず、いつまでもその想いに囚われて離れることがない。こうして停滞しているうちに人生が終わってしまえば、もはや悟りを得ることもできず、どうするすべもない。

 どうして、人々は世間の雑事を捨てようとしないのか。人は、元気なうちに努めて善行を行い、ただひたすら迷いの世界を捨てて極楽浄土に生まれ変わりたいと願うのであれば、限りない命が得られるのである。

 世間の人々は、善行によって善い結果を得ることや、修行によって悟りを得ることを信じない。人が死ねば生まれかわることや、人に施せば福が得られることを信じない。因果の法則を信じないから、先の事も後の事も誤り続ける。そして、子は親の誤った考えを引き継いでいく。善いことも悪いことも、全て自分の行為が招いているということを考えないのである。

 世間は本当に慌ただしく何一つ頼りにすべきものがないが、人々はただあくせくと世渡りに苦しんでいる。そして毒を含んだ恐ろしい想いを抱き、悪事を犯すのである。人々の罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに突然命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生まれ変わり続ける。その痛ましさは実に憐れむべきことである。

 私は俗世の有様(人間の愚かさ)を語った。これを踏まえ、お前たちは十分に考え、悪を遠ざけて善行に励むがよい。世の中は無常であり、どのような栄華もいつまでも続くことはなく、いずれ全てが失われてしまう。この世に本当に楽しむべきことは一つもない。幸いにも、今この瞬間、私(釈迦)という仏がこの世に存在するのであるから、努め励んで悟りを求めるがよい。私の教えに疑問があるのであれば、どのようなことでも尋ねるがよい。私は説いて聞かせよう。

 弥勒よ知るがよい。お前は、計り知れないほどの遠い昔から菩薩として修行を積み、多くの人々を悟りに導いた。しかしながら、遥か昔から迷いの世界に生まれ変わり続けて憂い苦しみ、今もなお迷いの世界にとどまっている。ただ、お前は、私(釈迦)という仏に遂に出会い、教えを聞き、また、阿弥陀仏のことを聞くことができた。これは、本当に喜ばしく素晴らしいことであり、私もお前と共に喜びたいと思う。

 お前たちは、今こそ生・老・病・死の苦しみを離れることを願うがよい。体と行いを整えて多くの善行を積み、心の汚れを洗い清め、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。そして迷いを離れるとともに衆生も救い、極楽に生まれかわって悟りを得ることを願い、功徳を積むがよい。一生涯、努め励み苦しんだとしても、それはほんのしばらくの間であって、後に極楽浄土の国に生まれてこの上ない楽しみを受けることができる。

 お前たちが、この世において心を正しくして、様々な悪を犯さなければ、それは極めて優れた徳であり、類を見ないことであろう。なぜならば、他の仏の国の天人や人々は自ずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、悟りの世界に導きいれることが容易いからである。私がこの世界で仏になって、五悪と、それがもたらす現世と来世での苦しみ(五痛・五焼)に満ちた世界に存在することは大変な苦労なのである。しかし、その中で、人々に対して教えを施し、五悪をやめさせて迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えて悟りを得させたいと思う。

 

 そして、釈尊は「五悪とは何であるか、これから説いて聞かせよう」と、以下のとおり仰せになった。

 天人や人々をはじめ小さな虫の類に至るまで、全ての者が様々な悪を犯しており、強い者は弱い者を虐げ、互いに傷つけ合い殺し合っている。これを第一の悪と言う。

 世間の人々は、道義や規則をわきまえず、贅沢を好んで淫らであり、他人を見下して勝手気ままな振る舞いをし、快楽を求めて互いを欺きあっている。言葉と思いが別々で、へつらい上手で真心に欠け、賢人を妬んで他人を貶める。これらは、人々が貪りと怒りと愚かさを抱くからである。これを第二の悪という。

 世間の人々は、常に邪な想いを抱き、淫らなことばかりを考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れている。そして、あくまで執念深く、淫らな思いを遂げようとする。美しい人を見ては流し目を使って淫らな振る舞いをし、自分の妻を疎ましく思って密かに他の女性のところに出入りをする。そして財産を使い果たし、遂には法を犯すようになる。これを第三の悪という。

 世間の人々は、善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、様々な悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口を言い、ウソをつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起こす。自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと傲慢な思いを抱き、教え導いていも聞く耳を持たず、手の施しようがない。これを第四の悪という。

 世間の人々は、怠けてばかりいて自分の仕事に励もうとはせず、一家は飢えと寒さに困り果てる。親が諭しても荒い言葉で口答えし、その様子はまるで敵を相手にするようであって、こんな子ならいない方がいいと思われるくらいである。そして自分の得だけを考えて、他人の物を奪い取り、好き放題に使ってしまう。それが習慣となって一人贅沢な生活をし、美食を好み美酒にふける。これを第五の悪という。

 このような悪を犯した者は自ずから地獄や餓鬼や畜生の世界で計り知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって果てしない時間を過ごすことになる。その苦しいことはちょうど燃え盛る火に身を焼かれるようである。

 もしこのような迷いの世界の中で、善行を積んで悪を犯さなければ、苦しみから逃れて功徳を得て浄土に生まれて悟りを得ることができるだろう。

 

 続けて、釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。

 世間の人々は五悪を犯し、それによって五痛と五焼の報いが生まれる。ある者はこの世で難病を患い、死にたいと思っても死ぬことができない。そして命が終われば、生前の行いに応じて地獄や餓や畜生の世界に生まれ変わり、計り知れない苦しみを味わう。長い時を経て再び人間界に生まれても小さな悪から始まり再び大きな悪を犯す。たまたま裕福になって繫栄しても一時の快楽に耽り、耐え忍ぶこともなく、積極的に善行を行わないことから、繁栄は長続きせず落ちぶれてしまう。

 お前(弥勒菩薩)を始めとする者たちは、仏の教えを聞いてよく思いを巡らし、心と行いを正しく保ち、上の者は下の者を導き、仏の教えを伝えていくがよい。それぞれが戒めを守り、聖者を尊んで善人を敬い、広く人々に愛情をそそいで慈悲の心を持つようにせよ。そして悟りの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を絶ち、様々な悪を根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などの苦悩の世界から離れよ。

 この世界で、心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかに保つなら、極楽浄土で100年間善行に励むよりも優っている。なぜなら極楽浄土は誰でも多くの善行を行うことができ、全く悪のないところだからである。

 私(釈迦)がお前たちを哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だから私は、今この世界で仏になって、五悪とそれに伴う五痛と五焼を無くし、人々を安らかな悟りの世界に導こうとするのである。しかし、私がこの世を去った後には、私の教えが次第に衰えていき、人々は偽りが多くなり、再び苦しみの世界に至るようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるだろう。

 

 釈尊が阿難に仰せになった。

 阿難よ。お前は立ち上がって衣を整え、合掌して礼儀正しく阿弥陀仏を礼拝するがよい。

 そこで、阿難は、座を立って衣を整えて姿勢を正して西方に向かい、礼儀正しく合掌して阿弥陀仏を礼拝して申し上げた。師よ。どうぞ阿弥陀仏と極楽浄土、そして極楽浄土におられる菩薩や声聞の方々を、目の当たりに拝ませてください。

 阿難がその言葉を発し終わるとすぐに、阿弥陀仏は大いなる光明を放ち、全ての仏がたの国々をお照らしになられた。すると、鉄囲山や須弥山やその他大小の山々など、全てのものが等しく金色に輝いた。阿弥陀仏の光明のために声聞や菩薩などの全ての光明はみな覆い隠されてしまい、ただ、阿弥陀仏の光だけが明るく輝いた。阿難のほか、出家の者も在家の者も、男であれ女であれ、集まっていた者は、光の中で阿弥陀仏の姿を目の当たりにした。

 

 釈尊が阿難と弥勒菩薩に仰せになった。

 お前たちは、極楽浄土の全てのものが極めて優れていることを見たか。阿弥陀仏が全世界に響き渡る声で人々に教えを説き述べていることを聞いたか。極楽浄土の人々が七つの宝でできた宮殿にいながら、全ての世界の仏がたを供養しているのを見たか。そして、極楽浄土の人々の中に胎生の者がいるのを見たか。

 阿難が釈尊に答えた。

師よ。すべてその通りに見させていただきました。

 そして、阿難は続けて次のようにお尋ねした。

一体どういう理由で、極楽浄土の人々の中に胎生の者がいるのでしょうか。

 これに対して釈尊がお答えになった。

 様々な功徳を積み、極楽浄土への生まれ変わった者の中には、阿弥陀仏の五智の智慧を知らない、あるいは、疑って信じない者がいる。これらの者は、極楽浄土に生まれ変わったものの、宮殿の中に留まり、五百年の間まったく仏を見ることができず、教えを聞くこともできず、菩薩や声聞たちも見ることができない。極楽浄土では、これを例えて胎生というのである。これに対し、阿弥陀仏の五智の智慧を疑いなく信じて極楽浄土に生まれ変わる者は、七つの宝でできた蓮の花に座して自ずから生まれる。これを化生といい、他の菩薩たちが備える光明や智慧や功徳などを欠けることなく身に備えるのである。

 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

 王が七つの宝でできた宮殿を持っているとしよう。その国の王子たちが罪を犯して王から罰せられると、黄金の鎖でつながれて宮殿の中に閉じ込められる。王子たちは、食べ物や飲み物、衣服や寝具、香り高い花や音楽など、何一つ不自由することがないとしても、その宮殿にとどまりたいと思うだろうか。これと同じように胎生の者たちは、極楽浄土の宮殿の中で何のストレスもない生活を送れるのであるが、500年の間、仏や菩薩や声聞たちに会うことができず、教えを聞くこともできず、そして、仏がたを供養して功徳を積むこともできない。このことはまさに苦なのである。弥勒よ。よく知るがよい。仏の智慧を疑うものは、大きな利益を失うのである。それゆえ、阿弥陀仏のこの上ない智慧を疑うことなく信じるがよい。

 この世界からは、今後、将来悟りを必ず開く67億人の菩薩が極楽浄土に生まれ変わるだろう。ただし、この世界の者たちだけが極楽浄土の国に往生するわけではない。遠照仏の国からは180億の菩薩が、宝蔵仏の国からは90憶の菩薩が、無量音仏の国からは220億の菩薩が、甘露味仏の国からは250億の菩薩が、龍勝仏の国からは14億の菩薩が、勝力仏の国からは1万4千の菩薩が、獅子仏の国からは500億の菩薩が、離垢光仏の国からは80億の菩薩が、徳首仏の国からは60億の菩薩が、妙徳山仏の国からは60億の菩薩が、人王仏の国からは10億の菩薩が、無上華仏の国からは数えきれないほどの菩薩が、無畏仏の国からは790億の菩薩が、それぞれ極楽浄土に生まれ変わるのである。

 私(釈迦)は、この度、阿弥陀仏についての教えを説き、さらに阿弥陀仏と極楽浄土の様子を見せた。もし、この上にまだ尋ねたいことがあれば、躊躇うことなく問うがよい。私がこの世を去った後に疑いを起こすようなことがあってはならない。私がこれまで示した様々な悟りへの道は、私が死んだ後、やがて全て失われてしまうが、特にこの教えだけはいつまでも留めておこう。私は、このように仏となり、様々な悟りへの道を示してきたが、ついにこの教えを説くに至った。阿弥陀仏の名を聞き、喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、大きな功徳を身に備えることができる。世界中が火の海になってもひるまずに進み、この教えを心に保ち続け口に唱え、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい。

 

 釈尊が教えを説き終わると、数限りない多くの者が悟りを求める心を起こして将来仏となる身となったのである。天も地も様々に打ち震え、光明は広く国々を照らし、実に様々な音楽が自ずから奏られ、数限りない美しい花があたり一面に降り注いだ。弥勒菩薩をはじめ様々な菩薩たちや阿難などの声聞たち、その他の全ての者の中で、歓喜の心を抱かない者は誰一人としていなかった。

 

 以上

 

 無量寿経(下巻)の詳しい解説については以下のリンク先で