前回記事「仏典を読む(その14)無量寿経(下巻)2」の続きとなります。

 無量寿経(下巻)要約の続きとなります。しばらくさぼっていましたが、今回から完結まで横道にそれずに頑張ります。

 

 【無量寿経(下巻)】3

 

 釈迦が弟子の阿難に仰せになった。

⑧ 極楽浄土の声聞たちが放つ光と比べ、菩薩たちが放つ光の方が遥かに明るく世界を照らす。菩薩の中でも、観音菩薩と勢至菩薩の二人は特に優れていて、その神々しい光は広く世界中を照らす。二人は、かつて、この娑婆世界で菩薩として修行を積み、命を終えた後、極楽浄土に生まれ変わったのである。   

 極楽浄土の菩薩たちは、優れた智慧と神通力を備え、仏になるまで二度と迷いの世界に戻ることはないが、私(釈迦)がこの国に現れたように、菩薩自身が望むのであれば、他の悪い世界に生まれ、その世界の人々と同じ姿を現すことも自由である

 

⑨ 極楽浄土の菩薩たちは、相手に対して常に正しい法を説き、内容を誤ることはない。また、極楽浄土を自分のものであると思わず、執着する心がない。菩薩たちは自分自身にとらわれることがなく自由自在であり、人と争うこともなく、怠けることもなく、大いなる慈悲をもって、あらゆる者に利益を与えようとする。悟りを得るための7つの修行(七菩提分)を修行し、平等の真理に到達しており、全てが空であると悟って大乗の教えを極め、その智慧をもって人々に法を説くのである。

 極楽浄土の菩薩たちは、ひたすら教えを願い求めて飽きることがない。いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。智慧の光を輝かせて愚かさの闇を除き、志が中途になることはない。人々のために指導者となり、世を照らす灯となり、多くの人々を心安らかにするのである。菩薩たちは、過去の善行の力、善智識による教導の力、意思・請願・方便・聞法の力など、様々な力を備えている。

 

⑩ 極楽浄土の菩薩たちは、数限りない仏たちを供養し、他方、仏たちも皆、菩薩たちのことを称賛している。菩薩たちは、六波羅蜜の行を究め、精神統一によって空・無想・無願の境地に至り、声聞や縁覚の位を遥かに超えている。今、私(釈迦)は、菩薩についてほんの一部分を説いたが、詳細については長い年月をかけても説き尽くすことができない。

 

【メモ】

 これまでは、阿弥陀仏と極楽浄土の素晴らしさが多く語られていましたが、今回は菩薩の素晴らしさが徹底的に語られています(原典では長文です)。菩薩行を行じる大乗仏教徒にとっては非常に重要なパートであると言えるでしょう。

 

 ⑧について、極楽浄土では、小乗仏教の聖者「声聞」よりも、大乗仏教の聖者「菩薩」の方が優れていると言っています。そして菩薩の中でも、観音菩薩と勢至菩薩が最も優れているとしています。この記述を根拠に、浄土教の諸派は、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩をセットで「阿弥陀三尊」として尊んでいます。

 ちなみに、大乗仏教の経典「菩薩瓔珞本業経」では悟りの階梯が52レベルまであるとされているところ、観音菩薩は、51レベル(等覚という)とされており、実はすぐにでも仏になれるのですが、衆生を救済したいからあえて悟りを開かないという存在とされています。

 「修行中の身である菩薩に過ぎない観音が、悟りを開いた阿羅漢である舎利弗(声聞)に教えを説くという般若心経は間違い」という上座部仏教側による批判がありますが、これに対し、大乗仏教側は、「声聞の悟りとは自分のことだけを考える境地に過ぎず、菩薩の境地の方が優れている。ましてや、観音菩薩は仏になろうと思えばすぐにでもなれる超高位の菩薩である」という考えで反論します。

 

 ⑨について、極楽浄土の菩薩は、修行を怠らず、人格が完成されており、衆生に法を説いて利益を与える尊い存在であるということが、これでもかと言わんばかりに説かれています。あまりにも褒めちぎっているので、菩薩は、もはやこれ以上の修行が不要なのでは?と思いますが、それでも、仏たちに対して教えを求めるのだそうです。これらの記述から、仏と菩薩の最大の違いは、修行が完成しているか、未だ修行中であるか…という点であるということがわかります。

 ちなみに、仏教学のレジェンドである中村元博士は、中村菩薩といわれることがありますが、氏の業績とエピソードを見ると、確かに菩薩と言われてもおかしくないと感じます。

 

 ⑩について、「ほぼ完成形」の菩薩たちですが、それでも阿弥陀仏をはじめ、様々な仏に対しての供養を怠らないようで、他方、如来たちも、菩薩たちのそのような姿勢を称賛しているようです。美しい師弟の形でしょうか。なお、ここでも、菩薩は、声聞や縁覚よりも遥かに優れていると記されています。

 

 次回に続きます。