前回記事「仏教と霊魂(その4)」の続きです。

 

 輪廻思想や六道について、岩波仏教辞典で調べていると、以下のような記述がありました。

 

【餓鬼】(がき)

 サンスクリット語は元来、死せる者、逝きし者を意味し、ヒンズー教では死後1年たって祖霊の仲間入りする儀礼が行われるまでの死者霊をさす。その間、毎月供物をささげて儀礼が行われるが、もしこうした儀礼がなされないときは祖霊になれず、一種の亡霊となる。

 仏教でも死者霊としての用法はあって、閻魔の住所である地獄に行ったり、人に憑いたり、生者からの供養をうけて望ましい世界に生まれ変わることを願ったりする

岩波仏教辞典

 これはまさに幽霊じゃないのか?と思わせる記述です。餓鬼といえば「施餓鬼」(せがき)の根拠となった「盂蘭盆経」という大乗経典が有名ですが、実は、更に古いパーリ小部経典の中に、餓鬼の詳細について書かれた「餓鬼事経」という経典があります。

 そして、「餓鬼事経」には、以下のような非常に興味深い内容が記されています。

 

 ベナレスの長者の妻が、飲食を求めて訪ねてきた旅人に対して「大便を食え。小便を飲め。血を飲め」などと言葉で責めた結果、餓鬼に生まれ変わって大変な苦しみを味わっていた。ただ、彼女は4つ前の人生で舎利弗(釈迦の十大弟子の1人)の母親だったことを思い出したので、助けを求めて舎利弗のいる寺院を訪問した。舎利弗は彼女を見て、「痩せて醜い姿形をしているあなたは誰か?」と聞いたところ、彼女は「私は前世であなたの母でした。息子よ、私のために布施をして下さい。そうすれば私は苦しみから解放されるでしょう」と答えた。そこで舎利弗は目連(釈迦の十大弟子の1人)を始めとする三人の長老に相談し、仏教教団に飲食を供する形で女性を供養したところ、女性は天界に生まれ変わった。

小部経典「餓鬼事経」を要約

(仏教学者藤本晃氏の訳本を参考)

 「餓鬼道に生まれ変わった女性が大変な苦しみを味わっていたが、自分の前世において舎利弗が息子であったことを知り、彼の元を訪ねて助けてもらった」という内容ですが、餓鬼道から自ら助けを求めて人間界を訪問しています。ガリガリに痩せた女性が別の世界から訪ねてきたら、それはどこから見ても幽霊じゃないでしょうか。

 

 これまで述べてきたとおり、人間が死ぬと六道のいずれかに生まれ変わり、生まれ変わるまでの中有の期間には霊魂が漂った状態とされます。それでは、それ以外に人間界で霊魂が漂うことがあるのでしょうか。これに対する答えとして、「餓鬼道からの来訪者という考え方であれば教義上の矛盾もないのではないか」などと想像します。幽霊・怨霊といわれる存在は、「欲が満たされていない状態」でしょうから、餓鬼という存在に近いでしょう。

 

 仏教と霊魂の話になると、すぐに「釈迦は霊魂の話を説いていない。これを無記という」と言って片づけてしまうことが多いんですが、このブログで説明したとおり、「死んだゴーディカのvinnana(識別力)を悪魔が探していた」とか、「死霊のような餓鬼が助けを求めて訪ねてきた」など、古い経典に書かれている事実については、どう考えるべきでしょうか。

 仏教における霊魂について語りたがらない僧侶や学者の方が多い印象があるのは、私の気のせいでしょうか…。

 

仏教と霊魂(その6)」に続きます。