これまで学んできた仏教を一度文章化(可視化)して整理しよう。せっかくだから、その過程をインターネットで公開して他の人の参考にしてもらおう。その方が張り合いもあるし、本気になるだろう。

 

 …などと考えてこのブログを始めました。あくまで「自分のため」ということで、読者数ゼロでも1年くらい続けようと思っていましたが、ブログの管理画面からアクセス数を確認できたりするので、やはりこれを意識してしまいます。「今回の記事は結構ウケたかも…。次回はこれを書いてみようか」などと、気が付けば、他人の評価を優先したりして、危うく「自分のため」という初心を忘れそうになります。再生数が伸びなくて焦ってどんどんズレていき、挙句の果てに逮捕されるYouTuberの気持ちが少し分かるようになったわけで、私も「密教を使って友人を呪ってみた」といった面白記事を書かないように、自らをよくよく省みないといけません。

 

 さて、最古の経典スッタニパータには以下のような内容があります。

集会の中で議論を述べて、それについて賞賛されると、心の中に期待したような利益を得て、彼は高慢となる。

高慢は、彼が破壊される場所である。しかし、彼は更に高慢・尊大な言葉を述べる。

スッタニパータ829・830

 「高慢」すなわち仏教の「慢」(まん)です。これは、大乗仏教の「五毒」のうちの一つで、また、部派仏教や現在の上座部仏教でも非常に好ましくない心の状態されています。ちなみに、「毒」というのは「煩悩」のことであり、人間を蝕んでいく煩悩の性質を「毒」に例えているのだといいます。

 私がこのブログで知ったような気持ちになって仏教を語り、「どうだ。魅力のある文章だろう」などと思うことがあれば、これは「慢」であり、仏道に反する行為となるでしょう。こうなると、以前の記事でお話しした「悪因苦果」の理からは免れず、記事を書くことで、心の平安からどんどん遠ざかっていくに違いありません。

  

 このブログは、自分のためと言いつつも、間違いなく読み手がおられますので、単なる自己満足の文書ではなく、読みやすく面白い文書(つまりウケる文章)にすることが礼儀であると考えています。ただ、やはりそれ以上に、仏教を語るのですから、文章を書く自身の内面などに時々意識を向け、自身の「慢」を監視する必要があるのでは…などと思っています。