釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな

 

室町時代の禅僧、一休宗純の狂歌です。

 

 日本の伝統仏教は13宗56派と非常に多くの宗派に分かれており、同じ仏教といえども、それぞれの教えは大きく異なります。仏教が多くの宗派に分かれた理由は、元々釈迦の教えが体系的でなかったからでしょう。それゆえに、後世の仏教徒による多様な解釈を許すこととなり、また、初期の仏教を担った古代インド人が極めて理知的・論理的であったことから緻密化され、結果として、仏教は非常に難解な内容となってしまいました。

 

 一休宗純の言う「おほくの人をまよはするかな」とはそのような仏教の状況を揶揄したものでしょう。仏教を学べば学ぶほど、より一層迷いが生じる…そんな悲しい事態が発生することもあります(私がそうです)。そのため、多くの人は特定の教え・宗派に焦点を絞る傾向が強くなります。仏教の宗派性が強いこと(例えば法華経や念仏あるいは座禅のみを重視することなど)については、こうした背景があるのではないでしょうか。

 

 釈迦は、布教を行った45年間、体系的な教えをほとんど説かなかったと言われます。「大医王」という別称が与えられているように、多くの人の心の病を癒す名医(カウンセラー)としての性格が強かったようです。悩み苦しむ衆生を見て、それぞれに合った教え(治療法)を説き、これを仏教では「応病与薬」や「待機説法」などと呼ぶのですが、そうした釈迦の姿勢によって、仏教は総体において一部の核心的教え(四聖諦など)を除き、一貫性に欠ける矛盾の多い内容となっているように見えます。

 

 釈迦の入滅後、弟子たちが釈迦の教えをまとめ、仏教の経典あるいは原型を成立させたと伝えられますが、先に述べたとおり、元々の教えが体系的な教えではなかったことから、それぞれに矛盾が発生します。そのため、これをいかに乗り越えていくか、理論化・体系化が進みます。一例をあげると、仏教では、諸行無常・諸法無我という考えから、永遠不滅の魂の存在を認めませんが、他方、輪廻転生によって人間が死ねば他の世界に生まれ変わるとしています。そうなると、魂の存在を認めないのに、一体何が生まれ変わるのか?という疑問が生まれるわけで、これに答えるため、驚くべき精緻な理論が展開されることになります。

 

 仏教全体の中でそれぞれの教えを矛盾なく説明するという試みは、仏教2500年の歴史を経て未だに継続中です。そんなわけで、仏教とは、「釈迦といういたずらものに迷わされ続ける歴史」であると言えるのかもしれません。