大乗仏教において課せられる6種の徳目「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」を六波羅蜜といい、これらを実践していくことで、仏教の目標となる「悟り」を得ることができるとされています。各徳目にはそれぞれ重要な意義があるのですが、これらを実践していくとなぜ悟りを得られるといえるのでしょうか。そもそも、悟りとは?という問いに対して、私が確信をもって話すことはできません(当然です)。私が語る「悟り」などは、戯論といえるガラクタばかりでしょうけど、ただ、中には少しだけ、もしかして…と思うものもあります。

 

 六波羅蜜は、衆生救済を強く意識した大乗仏教の教えであり、それゆえ、徳目の筆頭として「布施」を挙げています。「布施」と聞くと、「おふせ」として寺院や僧侶に対して財物を寄進するようなイメージがあり、眉をしかめる人も多いでしょう。ただ、実のところ、「布施」は財を寄進するだけでなく、仏の教えを説いたり、安心させることも含まれます。「雑宝蔵経」という経典には、「無財の七施」という教えが見られます。具体的には、「優しい表情で接する」とか「礼儀正しくすること」などであり、財力がない人でも布施は実践できるということになります。

 

 さて、無財の七施の中には、「床座施」(しょうざせ)というものがあります。これは、「他人に席を譲る」という内容なのですが、これに関して、海上自衛隊の幹部を務める友人から示唆に富む話を聞きました。彼が言うには、防衛大学校の学生は、電車に乗車した際、空席があっても座らず、必ず立つのだそうです。これは「国民を守る自衛隊は常に国民を優先する」という理念に則ってのことであるそうですが、加えて「日常的に席に座ってはいけないことに慣れると、席の取り合いがなくなり、席を取られてムカつくことはなくなる」とのことでした。些細なことではありますが、ある意味、日常の苦しみからの脱却に見事成功しているようにも見えます。

 

 「布施」すなわち、与えることが当たり前になれば、多くの苦しみから解放されることは想像に難くありません。考えてみれば、釈迦が説いた人間の苦しみ「四苦八苦」のうち、「愛別離苦」(愛する人と別れる苦しみ)「怨憎会苦」(嫌いな人と会う苦しみ)、「求不得苦」(望みどおりにいかない苦しみ)は、他人の存在を前提として成立するものです。「布施」という徳目は、他人と自分の間にある「壁」を取り除き、苦しみの発生を防ぐこと、その手段・方法論として、六波羅蜜に存在しているのでしょう。