山へ行く列車 Vol.1 特急とき | 情熱山脈(passion mountains)のブログ

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ともかく山が好き...春~秋はトレッキングを...冬~春はバックカントリースキーを通して雪山の魅力を...

現代、山へ行くには、マイカー、高速バス、電車などの交通機関がありますが、新幹線が開業するまでは、時間をかけて登山口やスキー場へ行ったものです。

 

 新潟県は、古くは冬の間は、雪深く産業がない地域でした。昭和に入って、清水トンネルや三国トンネルが開通して関東とつながると共に、観光という市場が伸長するとともに、冬も収入を得ることが出来ることになりました。

 

 上越線は昭和6年に開通し、石打~水上間はスイスの技術に習ったループトンネルなどを建設し、それでも20‰の最急勾配(20‰は1kmで20m登る勾配)が連続して続くことや、積雪期は雪による抵抗もあり、開業当初から電化されました。越後湯沢付近の架線中を見るとクラシックなスタイルをしていますね。昭和20年に第2次世界大戦が終結するまでは、軍部は電化を推し進めていませんでした。電化は架線や変電所などを空爆されるだけで列車が走らなくなるのにくらべ、蒸気機関車であれば、線路さえあれば走れるという考えであったからです。

 

 ただ、上越線の開業と共に、国境と呼ばれる山へのアクセスが良くなったことにより、例えば谷川岳は世界一遭難死の多い山となってしまったのでした。

 しかし、それまで、長岡から直江津~長野~軽井沢~高崎を経由していた新潟県の産品は容易に首都圏に運ぶことが出来るようになったのでした。
 道路交通では国道17号三国トンネルは昭和32年の開通ですので、いかに上越線の開通は意義深かったかがわかります。

 

 さて、戦後昭和30年代になると、東海道にはデラックスなビジネス特急”こだま”が走り始めました。それを横目で見ていたのは、東海道線以外の地域でした。

 昭和30年代後半になると、”こだま”の成功を見た他の地域から特急列車の運転を要望する機運が高まりました。

 東海道で走っている”こだま”を上越線に!ということで、こだま用の151系を上越線に持ち込んで試験をしましたが、上越線の連続急勾配には歯が立たず、(モーターの過熱)水上で折り返し、翌日、付随車(モーターが付いてない車両)2両を切り離して先頭車2両と中間動力車4両の強力編成でなんとか清水トンネルを抜けて長岡まで達したのでした。

 

 国鉄としては、1964年に東海道新幹線の開業を控えて、東海道筋の特急電車が余剰となることもあり、上越線に転用することは良しとしたのですが、上記のとおり、そのままでは走れないので、モーターを強力なものに取り換えました。
 それにより、登場したのが、とき用の181系電車でした。

 

地域活性化を担ったこの形式は、山陽本線や中央本線にも登場し活躍しました。中央本線では狩人の歌にもなった”あずさ”として、多くのアルピニストを運びました。

 

さて、上越線の”とき”は、パワーアップして登場したものの、世界に冠たる豪雪地帯ゆえの雪害に悩まされ、冬季は長期に亘って運休を余儀なくされることもありました。

 また、それにより、車両の痛みも激しく、雪害に強い183系がデビューすると少しずつ運用が減っていったのでした。

 

 今回の動画の”とき”は10両編成時代の比較的早期のものです。登場時は先頭車運転台上にヘッドライトがありましたが、上越線の小径トンネルの関係もあり、外されるとともに、東海道筋の車両との見分けのためにボンネットに赤いラインが引かれました。

 

模型は1/80 大昔の組み立てキットが格安で委託販売で出ていたのをGetして組み立てたものです。1/150のNゲージであれば、1回のスキー旅行代で鉄道模型は始められますね(笑)