仏教から基督へ―溢るる恩寵の記 (1957年) 仏教から基督へ―溢るる恩寵の記 (1957年)

 

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「なぜ仏教からキリスト教へ」改宗したかを記しておきます。

私は元々浄土真宗の家に生まれましたが、

親鸞聖人に関する本や、阿弥陀仏の本願について

調べているうちに、浄土真宗以前に仏陀は死後の世界について

何も語っていないし、原始仏教は宗教というより実践哲学で

あると確信し、また浄土真宗についてはインドから

中国に伝わった際に、古代キリスト教のネトリウス派が景教となり

浄土真宗の親鸞も京都西本願寺に保管されている「世尊布施論」を読んだという説もあります。

また、ネットには「浄土真宗とキリスト教の異常な親和性に関する疑問。」

というQ&Aもあります。

個人的には、神が人間になられて歴史上の人物として記録が残っていること、

対して阿弥陀仏はそうではないことからイエス・キリストを信じるようになりました

 

キリスト教放送局FEBCのコーナー

御足の跡を11/14

小池与之祐(日本基督教団神の愛キリスト伝道所牧師)で

リスナーの手紙からで私が送ったメールが紹介されました!

 

小池与之祐先生の「御足の跡を」に
今週もお便りを頂きました。

小池与之祐先生の「御足の跡を」を毎週楽しみにしています。
会堂のこと、介護のこと、吃音のこと、自殺のこと。色々な話題に考えさせられます。
牧師になられた過程も知りたいと存じます。先生のお声を聴いているだけでも癒やされます。
水曜日は母教会の祈祷会が夜になるので帰宅してからFEBCをネットで聴いています。
私はまだ洗礼を受けていないので、
主が洗礼の日を定めてくださる事を祈っていただけると嬉しいです。
これからも、健康に気をつけて下さい。
ありがとうございます。

先生のお返事は本当にシンプルです。

「イエス・キリストを信じて洗礼を受けたいと思われたのは、聖霊の働きです。
牧師にお話してください。祈祷会で兄弟姉妹たちに祈ってくださいと話してください。
喜んで祈ってくださいます。」

なんとも短くて「飾り気」の無さすぎる?ぐらいの言葉ですね。
でもだからこそ、小池先生のこの番組が
今のFEBCにあるんだなと、感じました。

何より、番組後半のお証を聞いて思ったんです。
この先生のお答えって、まさしくご自身が受けた体験を
本当にそのまま純粋に伝えようとされているだけなんだなと…

ただただひたすらに、愚直なまでに、
主の御足の跡を追いつづける先生。
背筋が伸ばされる思いがします。

御足の跡を
小池 与之祐 (日本基督教団 神の愛キリスト伝道所牧師)
毎週水曜日更新
 ⇒ 「リスナーの手紙から」


 

1月16日(水)は午後7時半から定例の祈祷会でした。

今回は牧師夫妻と男性信徒と私の4人でした。

 

聖書輪読。

 

ローマ人への手紙より

第9章

9:1
わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。

9:2
すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。

9:3
実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

9:4
彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、

9:5
また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。

9:6
しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、

9:7
また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。

9:8
すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。

9:9
約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。

9:10
そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。

9:11
まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、

9:12
わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。

9:13
「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。

9:14
では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。

9:15
神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。

9:16
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。

9:17
聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。

9:18
だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

9:19
そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。

9:20
ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。

9:21
陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。

9:22
もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、

9:23
かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。

9:24
神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

9:25
それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。

9:26
あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。

9:27
また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。

9:28
主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。

9:29
さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。

9:30
では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。

9:31
しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。

9:32
なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

9:33
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。

第10章

10:1
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。

10:2
わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。

10:3
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。

エペソ人への手紙

第2章

2:11
だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

2:12
またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

2:13
ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

2:14
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

2:15
数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

2:16
十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

2:17
それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。

2:18
というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。

2:19
そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

2:20
またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。

2:21
このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、

2:22
そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

Wikisourceより

 

 ⇒ 黒部バプテスト教会

 

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主の祈り(新改訳聖書)

天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン。

 

使徒信条


我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、
全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。
アーメン

 

 

中高生会は月一度行っています

日曜日
10:30~ 主日礼拝
 (子どものクラスもあり)
14:00~ ジョイキッズ
希望者に夕礼拝を行っています
 
月曜日
希望者に礼拝を行っています
 
火曜日    
水曜日
20;00~ 祈祷会
 
木曜日
14:00~ レディース
 
金曜日    
土曜日
月1回 スイーツの会をしています